洗礼堂内には、ドナテッロとミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(ミケロッツォ・ミケロッツィ)が手がけた対立教皇ヨハネス23世(在位1410〜1415)の墓廟があります。
対立教皇ヨハネス23世は、対立教皇のなかで最も物議を醸しだした人物の一人で、もとは海賊だったとも言われています。本名はバルダッサーレ・コッサです。
メディチ銀行を設立した銀行家ジョヴァンニ・ディ・ビッチは、コッサと親交があり、コッサが1402年に枢機卿になった時も、1410年にローマ教皇に選出された時にも、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが財政的な後押しをしたと言われています。メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げ、教皇庁の財務管理を任されて15世紀末までこの立場を保ちました。
バルダッサーレ・コッサは1410年にローマ教皇ヨハネス23世に選出されたとはいえ、時代は「教会大分裂」の時代で、ローマとアヴィニョンとピサで3人のローマ教皇が対立していた混乱期でした。
この状況を打破しようと神聖ローマ皇帝ジギスムントがコンスタンツ公会議(1414〜1417)を招集します。メディチ家もヨハネス23世の銀行家として同行しましたが、そこで待ち構えていたのは大変な運命でした。会期中に、ヨハネス23世はそれまでの悪行の数々によって告発され、4年間投獄されてしまいます。
公会議はヨハネス23世とベネディクトゥス13世を強制的に廃位させ、もう一人のグレゴリウス12世には名誉職を与えて退位させると、新教皇マルティヌス5世(在位1417〜1431)を選出して、ようやく大分裂の時代は収束しました。
この事件はジョヴァンニ・ディ・ビッチにとって大痛手でしたが、それでも決して無冠となったヨハネス23世を見捨てず、巨額の保釈金を払ってフィレンツェに迎えました。1419年にヨハネス23世が亡くなると、彼の遺言を守って、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが、立派な廟墓を洗礼堂内に建設させました。
<作品情報>
Tomba dell'antipapa Giovanni XXIII, Donatello e Michelozzo, 1426 circa, Marmo e bronzo, 732 cm, Battistero di San Giovanni, Firenze