12/17/2020

コジモ・デ・メディチ Cosimo 'Il Vecchio' de' Medici


コジモ・デ・メディチ(Cosimo di Giovanni de' Medici, 1389〜1464年)、通称イル・ヴェッキオ(il Vecchio)は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの長男で、父の生前から銀行業務を任され、優れた経営手腕を発揮していましたが、深い古典的な教養の持ち主でもありました。


コジモはさまざまな人脈を通じて支持者を集め、ジョヴァンニが1429年に世を去ったとき、新興派閥のメディチ派はアルビッツィ派に対抗しうる一大勢力となっていました。


1429年、フィレンツェはルッカ攻略をしかけましたが、アルビッツィ派の思惑に反してうまくゆかず、戦況は一進一退、共和国の経済不況は深刻化しました。多額の戦費を使ったあげく4年後の1433年、「すべてを戦前の状態に戻す」という条件でルッカと和解しましたが、それでは何のために戦争したのか分かりません。重税に苦しむ市民たちのあいだに不満が高まり、この戦争に対して終始批判的な態度を取ってきたメディチ派に期待が集まりました。


コジモを倒す機会をねらっていたアルビッツィ家の当主リナルドは、1433年9月、メディチ派を参加させずに緊急市民集会を開き、バリーア(特別委員会)の設置を決めました。コジモは逮捕され、政庁舎の鐘楼の一室に20日間監禁されました。リナルドはコジモを政府転覆の陰謀を理由に死刑にすることを主張しましたが、穏健な処分を求める世論に屈し、最終的にはパドヴァへの10年間の追放刑が科せられることになりました。


コジモはパドヴァにしばらく滞在したあと、ヴェネツィア政府の強い働きかけにより、弟ロレンツッォの亡命先であるヴェネツィアに移りました。ヴェネツィアはメディチ銀行と関係が深かったため、コジモは歓待され、何一つ不自由のない亡命生活を送ることができました。


コジモの亡命の1年間、フィレンツェの経済は好転せず、不況が続いたので、政府への不満は極限に達し、メディチの帰国を望む声が大ぴらに聞こえるまでになりました。1434年8月、次期の政府役職選挙はアルビッツィの必死の工作にもかかわらずメディチ派が勝利し、メディチ派が多数を占める政府が成立しました。市民集会が開かれ、再びバリーアが設置され、メディチ家追放の取り消しと、アルビッツィ派70人以上の追放が決議されました。10月初め、コジモは帰国の途につきました。


こうしてコジモはフィレンツェの実質的な支配者となりましたが、あくまで一般市民としてふるまい、表向きはそれまでどおりの共和国体制が維持されました。有資格者の名札を袋に入れて政府の役職に就く人を抽選するという方式は変わりませんでしたが、メディチ派で占められた選挙準備委員会によって袋に入れる名札はコジモの息のかかった人物にかぎられました。


作品情報:

Ritratto di Cosimo il Vecchio, Pontormo, 1519-1520 circa, Olio su tavola, 86×65 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze