ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici, 1360〜1429年)、通称ジョヴァンニ・ディ・ビッチは、フィレンツェの歴史に名を刻むメディチ家の当主で、一族の繁栄を築いた人物です。
ジョヴァンニは、親戚がローマで経営していた銀行を引き継ぎましたが、1397年に本店をフィレンツェに移しました。これが事実上の「メディチ銀行」の創設となります。
メディチ銀行は飛躍的な発展を遂げ、フィレンツェ有数の大銀行になりましたが、それにはローマ教皇庁とのつながりが大きな役割を果たしています。ローマで働いていた頃から教皇庁の金融業務に深くかかわっていたジョヴァンニは、1410年に親しい枢機卿バルダッサーレ・コッサがヨハネス23世として教皇の位に就くのを助けました。こうしてメディチ銀行は教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功しました。
醜聞にまみれた人物だった対立教皇ヨハネス23世は1415年に廃位させられ、殺人、男色などの罪で幽閉されてしまいましたが、ジョヴァンニは多額の保釈金を支払って解放し、フィレンツェに迎えました。その死後にはサン・ジョヴァンニ洗礼堂内にドナテッロとミケロッツォ設計の豪華な墓廟まで建設しています。
その一方で、ジョヴァンニは次の教皇マルティヌス5世とも良好な関係を保ち、メディチ銀行はその後も半世紀以上にわたって教皇庁の財務管理者として巨額の利益を上げました。
ジョヴァンニは両替商組合(Arte del Cambio)のプリオーレ(Priore, 執政官)に3回(1402, 1408, 1411年)就任するなど共和国の要職を歴任し、1421年には「正義の旗手(Gonfaloniere di Giustizia)」も務めています。しかしこれは有力市民としての義務を果たしただけで、自ら地位を望んだのではありませんでした。ジョヴァンニは与えられた仕事を誠実に行いながらも要求されたこと以上は行いませんでした。
1422年には、教皇マルティヌス5世はモンテ・ヴェルデ伯の称号を授けようとしますが、ジョヴァンニは政治的な配慮から爵位を辞退し、一市民の立場にとどまりました。
当時のフィレンツェではアルビッツィ家を中心とする少数の有力門閥による寡頭政治が行われていましたが、彼はどの権力者とも一定の距離を保ち、政治に深入りすることを避けました。巨万の富を蓄えたうえに大衆に人気もあったジョヴァンニが政治的野心を示せば財産没収、国外追放となる恐れがあったためです。したがってジョヴァンニの生き方は実に賢明だったといえるでしょう。
1429年、ジョヴァンニは69歳でその生涯を閉じました。その際、離散したメディチ家の一族、教皇代理、諸外国の大使、フィレンツェの有力者たちが参列し、一代で巨富を築いたジョヴァンニの交際範囲の広さを見せつけました。
ジョヴァンニは、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室に妻ピッカルダ・ブエーリと共に埋葬されています。