Let's go to Italy!

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1444年、コジモ・デ・メディチは、ラルガ通り(現在のカヴール通り)とゴーリ通りの角に新しいメディチ宮殿を建設することにしました。


あれだけの権勢を誇ったメディチ家にしては地味な印象の邸宅ですが、そこには、共和制を建前としたフィレンツェで、アルビッツィ家の陰謀(1433年)を経て、他人から反感や嫉みを買うことがいかに危険なことであるかを思いしらされたコジモらしい配慮がありました。


最初、コジモは新居の設計をブルネッレスキに依頼しました。しかし、ブルネッレスキの新居設計案は目立ちすぎる派手なデザインだったという理由で、コジモは却下しました。結局コジモは、お抱え建築家とも言えるミケロッツォ・ミケロッツィに改めて設計を依頼しました。


工事は着実なペースで進められました。竣工の記録はありませんが、邸内の礼拝堂がベノッツォ・ゴッツォリの壁画で飾られる1459年頃には完成したものと思われます。


完成した邸宅はその後の邸館建築のモデルとなりました。それは、フィレンツェで最初のルネサンス様式の邸館建築であり、ブルネッレスキによって示された古典的な力強さと、アルベルティに見られる知的優雅さを兼ね備えた独創的なものでした。


外観は3層に区切られています。第1層は荒削りのままの石を積み上げた力強い粗石積み(ルスティカ, rustica)で、それが第2層から第3層へと、しだいに平板な仕上げの石積みになり、開口部の窓も繊細でリズミカルな二連アーチ窓となり、視線を上げるほどに軽快さが増します。建物の最上部の周縁には、古代建築風のコーニス(軒)をめぐらせて、外観全体を荘重な趣きで引き締めています。


当時は、2つの通りが交差する角には広いロッジャ(loggia, 開廊)が開かれ、市民に開放されていました。しかし、1517年には、それはミケランジェロ設計の窓によって塞がれました。


古典的で幾何学的な整然さがきわだつ中庭は、細身のコリント式円柱が支える連続アーチで囲まれた正方形プランの空間となっています。アーチの上のフリーズには黒地に白い花綱を浮き上がらせた装飾が施されています。それらの間にはメディチ家の紋章と交互に古代風の円形メダイヨンが配置されています。メディチ家紋章のデザインはそれぞれ異なり、円形メダイヨンのモチーフには、コジモ自身の古代コレクションであるカメオや彫刻のモティーフが利用されました。


かつてこの中庭には、15世紀の大彫刻家で、コジモのお気に入りのドナテッロの大傑作である、ブロンズ製の《ダヴィデ》が置かれていました。しかし、1494年の政変でメディチ家が追放されると、ヴェッキオ宮殿に移され、現在はバルジェッロ美術館に展示されています。


また、奥にある庭園の噴水には、ドナテッロの晩年の名作《ユディトとホロフェルネス》のブロンズ像が設置されていましたが、こちらも《ダヴィデ》と同じ運命を辿りました。現在はヴェッキオ宮殿内部に保存され、シニョリーア広場にはコピーが置かれています。


宮殿内部で、当時の雰囲気を今に伝えてくれるのは、2階にある礼拝堂です。この小さな礼拝堂は、祭壇のある面を除いて三方の壁面には、ベノッツォ・ゴッツォリの壁画、《ベツレヘムへ向かう三王の旅》がフレスコ画で絢爛と描かれています。そして、画中の三王をはじめとする人物には同時代のメディチ家の人々の肖像が写されています。


この壁画絵巻の傑作のほかにも、ピエロが注文したパオロ・ウッチェッロの傑作《サン・ロマーノの戦い》連作3点(現在はウッフィーツィ美術館、パリのルーヴル美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵)は宿敵シエナに対する1432年の記念すべき戦勝図として、その後もロレンツォ豪華王が手放さずに自分の寝室を飾らせていたと言われています。


このメディチ宮殿はトスカーナ大公フェルディナンド2世の時代、1659年に侯爵ガブリエーレ・リッカルディに売却されたため、現在はメディチ・リッカルディ宮殿と呼ばれています。なお、その時に建物は北側に7径間(窓7つ分)増築されました。そのため、邸宅の二連アーチ窓の上には、オリジナル部分にはメディチ家の紋章、増築された部分にはリッカルディ家の紋章が飾られています。











宗教権力の拠点であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とサン・ジョヴァンニ洗礼堂、そして政治権力の拠点であるヴェッキオ宮殿の広場のちょうど真ん中に位置する、一風変わった外観をもつ建物がオルサンミケーレ教会です。


この箱型の建物は、教会堂のようには見えず、ピエトラ・フォルテ(petra forte, 黄褐色砂岩)で建てられた頑丈な要塞のように見えます。


この教会の名前は、750年に建設されたサン・ミケーレ礼拝堂(Oratorio di S. Michele Arcangelo, San Michele in Orto)に由来します。しかし、1240年には礼拝堂は取り壊されて穀物市場が建設されました。ところが、それから半世紀後の1304年、火災で市場は焼け落ちてしまいました。


1337年から、建築家のフランチェスコ・タレンティやネーリ・ディ・フィオラヴァンテの設計に基づいて再建されたものの、14世紀末には市場は他の場所に移転し、建物は礼拝堂として復活することになりました。1404年には、新たに2階と3階が増築され、非常時(飢饉)用の穀物倉庫として使用されることになりました。


そして、この多目的な教会を同業者組合(アルテ, Arte)がそれぞれの守護聖人像で飾ろうとしました。当時の政府は同業者組合の代表者によって構成されていましたので、組合は現在の政党に近いものと考えたほうがいいかもしれません。


組合には7つの大組合と14の小組合の合計21の組合がありました。大組合に所属するのは、フィレンツェの主要産業であるラシャ業(Calimala)、毛織物業(Lana)、絹織物業(Seta)のほか、両替商(Cambio)、医師・薬種商(Medici e Speziali)、毛皮商(Vaiai e Pellicciai)、裁判官・公証人(Giudici e Notai)の各組合です。そして、小組合には、肉屋、錠前屋、靴屋、武器・甲冑、大工・石工、鍛冶屋、材木商、宿屋、酒(ワイン)屋、油屋、パン屋などが属していました。


裁判官・公証人組合は聖ルーカ、両替商組合は聖マタイ、武器・甲冑組合は聖ゲオルギウスといったように、組合ごとに守護聖人が決まっていました。それは第一線の彫刻家たちの手で制作され、教会の周囲の計14の壁龕に設置されました。


カルツァイウォーリ通り(Via dei Calzaiouli)右端から時計回りに

𝟏. 裁判官・公証人(Giudici e Notai)

《聖ルーカ》ジャンボローニャ(ブロンズ)

𝟐. 商業裁判所(Tribunale della Mercanzia)

《聖トマスの不信》アンドレア・ヴェッロッキオ(ブロンズ)

▼当初はグエルフィ(教皇党)が所有し、ドナテッロのブロンズ像《トゥールーズの聖ルイ》が収められていましたが(現在、サンタ・クローチェ聖堂付属美術館所蔵)、その後、壁龕は商業裁判所に売却され、像も変えられました。

𝟑. ラシャ業(Calimala)

《洗礼者ヨハネ》ロレンツォ・ギベルティ(ブロンズ)

𝟒. 絹織物業(Seta)

《福音書記者ヨハネ》バッチョ・ダ・モンテルーポ(ブロンズ)

𝟓. 医師・薬種商(Medici e Speziali)

《バラの聖母》ピエロ・ディ・ジョアンニ・テデスコ(大理石)

𝟔. 毛皮商(Vaiai e Pellicciai)

《聖ヤコポ》ニッコロ・ディ・ピエトロ・ランベル(大理石)

𝟕. 亜麻布・古着商(Linaioli e Rigattieri)

《聖マルコ》ドナテッロ(大理石)

𝟖. 鍛冶屋(Fabbri)

《聖エリジオ》ナンニ・ディ・バンコ(大理石)

𝟗. 毛織物業(Lana)

《聖ステファノ》ロレンツォ・ギベルティ(ブロンズ)

𝟏𝟎. 両替商(Cambio)

《聖マタイ》ロレンツォ・ギベルティ(ブロンズ)

𝟏𝟏. 武器・甲冑(Corazzai e Spadai)

《聖ジョルジョ(ゲオルギウス)》ドナテッロ(大理石)

𝟏𝟐. 石工・木工の親方(Maestri di Pietra e Legname)

《4人の殉教者》ナンニ・ディ・バンコ(大理石)

𝟏𝟑. 製靴業(Calzolai)

《聖フィリポ》ナンニ・ディ・バンコ(大理石)

𝟏𝟒. 肉屋・魚屋・食堂経営(Beccai)

《聖ペテロ》ドナテッロとフィリッポ・ブルネッレスキ(大理石)


壁龕に設置されている彫像はすべてコピーで、オリジナルは美術館に展示されています。












メディチ家礼拝堂は、位置としてはサン・ロレンツォ聖堂の主祭壇の後ろ側にあたりますが、博物館として独立した入口をもっているため、教会堂内からではなく、いったん外へ出て、チケットを買って入り直す必要があります。


メディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂の堂内には、あちこちにメディチ家の墓が設けられていますが、大切な礼拝堂は「新聖具室(Sagrestia Nuova)」と「君主の礼拝堂(Cappella dei Principi)」の2ヵ所です。


「新聖具室」は、礼拝堂にて転用すべくミケランジェロが設計し直した詩的な芸術空間で、教会の右翼廊にあります。もう一つの「君主の礼拝堂」は、メディチ家のトスカーナ大公たちが眠る贅を尽くした大空間で、教会の後陣部分に建設されました。


1520年、ミケランジェロはメディチ家出身のローマ教皇レオ10世の依頼を受けて「新聖具室」を設計し、彫刻と建築を見事に調和させることに成功しました。教皇レオ10世が死去すると計画は一旦中断しますが、教皇クレメンス7世によって再開されます。


ロレンツォ豪華王と、パッツィ家の陰謀で刺殺された弟のジュリアーノは、祭壇と向かい合う南側に設置された『聖母子』像の下に埋葬されています。なお、簡単な墓誌だけで、2人を記念するような肖像彫刻などは実現しませんでした。


東西の壁面に向かい合って設置された2つの墓廟は、東側がヌムール公ジュリアーノ(レオ10世の弟)、西側がウルビーノ公口レンツォ(レオ10世の甥)の墓です。


ただし、ミケランジェロは実際の2人に似せて肖像を彫ろうとはしませんでした。当時の人々がそのことを指摘すると、「十世紀も後になれば、そんなことを誰も問題にしなくなるだろう」と言ったそうです。


ヌムール公ジュリアーノには『行動』、ウルビーノ公ロレンツォには『思索』という対をなす主題が与えられています。そして、それぞれの像の下には、さらに1日を示す4体の擬人像が対をなして配置されています。ジュリアーノの肖像の下には『夜』の女性像と『昼』の男性像、ロレンツォの下には『夕暮』の男性像と『曙 』の女性像です。


この空間では、ミケランジェロの造形原理であるコントラポスト(対位法)が明快に貫かれ、ダイナミックなリズムと緊張が構造的に調和しています。


メディチ家の墓廟は、時代とともに拡大されてゆきました。ブルネッレスキによる5世紀の旧聖具室、ミケランジェロによる16世紀の新聖具室、さらに17世紀には第3代トスカーナ大公となったフェルディナンド1世の時代に「君主の礼拝堂」が着工されました。


コジモ1世の庶子であるドン・ジョヴァンニ・デ・メディチの設計に従って、1604年に建築家ベルナルド・ブオンタレンティが建設を開始しますが、ほぼ現在のような形になるまでには1世紀以上の歳月を要しました。


世界中から集められた色とりどりの美しい大理石や半貴石によって、壁面は重厚かつ華麗に仕上げられています。そして、周囲にはコジモ1世以後のメディチ家出身のトスカーナ大公たちの墓廟が並んでいます。











サン・ロレンツォ教会の正面ファサードに隣接した左側の扉をくぐると、美しい二階建ての連続アーチに囲まれた中庭に出ます。中庭の列柱回廊を左に折れたところから回廊の2階に上ると、貴重かつ豊富な蔵書で知られる、ミケランジェロが設計したメディチ家の図書館、ラウレンツィアーナ図書館があります。


ラウレンツィアーノ(Laurenziano/a)とはイタリア語で「ロレンツォ(Lorenzo)の」という形容詞なので、「豪華王 il Magnifico」と讃えられたメディチ家のロレンツォが建設した図書館のように思う人もいるかもしれませんが、この名はサン・ロレンツォ聖堂の一部として建設されていることに由来します。


メディチ家の「祖国の父」コジモが開始し、孫のロレンツォ「豪華王」によって大きく充実した蔵書コレクションは、しばらくは数奇な運命を辿ることになります。ロレンツォ豪華王の死後まもなく、メディチ家がフィレンツェから追放されると、メディチ家の蔵書はすべて没収されサン・マルコ修道院に持ち去られてしまいます。しかし、ロレンツォ豪華王の次男がローマ教皇レオ10世として即位すると、蔵書は再びメディチ家の手に戻され、その大部分がローマに送られました。


続いてローマ教皇の座についたメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、1523年に、今度は蔵書をローマから祖国フィレンツェに送り返し、ミケランジェロに命じて図書館の建設を計画しました。


実際には、神聖ローマ皇帝カール5世が率いる傭兵軍がローマに進駐してきた1527年の「ローマ劫掠(Sacco di Roma)」では、クレメンス7世自身がサンタンジェロ城に閉じ込められてしまったので、図書館の工事も一時中断され、1530年以降に再開されています。


それでも、ミケランジェロ自らがフィレンツェで図書館建設にあたることはありませんでした。ミケランジェロが玄関間の粘土模型を送ったのは、ようやく1559年になってからのことです。ローマに滞在していたミケランジェロの指示を受けながら、メディチ家の宮廷芸術家としてコジモ1世(後のトスカーナ大公)のもとで活躍したジョルジョ・ヴァザーリとバルトロメオ・アンマンナーティが建設を担当しました。そして、最終的な完成はミケランジェロの死後に持ち越されます。


主要部分は玄関間と閲覧室ですが、ここはマニエリスム建築とバロック建築の出発点になったといわれるほど、空間に対する新しい解釈が感じられます。


意外なほど小さな図書館の入口に足を踏み入れると、そこは少なくともフィレンツェでは見たこともない奇妙な空気が充満した玄関間です。それは明快な比例関係に基づいた古典的ルネサンス様式でもなければ、ダイナミックに躍動するバロック空間でもありません。


狭く閉鎖的な玄関間は、形だけの窓やなにも支持しない持送り,壁面をえぐって埋め込まれた双円柱など、伝統的な様式からは大きく隔たっています。


ゆるやかに流れ落ちる滝の水からインスピレーションを受けたという階段はあたかも彫刻作品のようです。三部に分かれている階段は、上部ではひとつに集まるため機能的な意味はありません。劇場の舞台を思わせるような構成と、楕円を利用したデザインは、直線と正円とを基本的な構成要素とするルネサンス建築から逸脱しています。


15段の階段を上り詰めると、奥に深く伸びた閲覧室があります。玄関間の垂直性と閲覧室の水平性は、水の流れを遡行し、滝のカーテンの裏側に回り込んだような錯覚を与えます。


閲覧室では、床面や天井の装飾をはじめ、書見机のデザインまで、すべてがミケランジェロの指示に忠実にしたがって制作されています。書見台には蔵書の一部である貴重な古写本がずらりと展示されています。











サン・ロレンツォ聖堂は、聖ラウレンティウス(イタリア語名はロレンツォ Lorenzo)に捧げられた、フィレンツェで最も古い教会のひとつです。


393年にミラノ司教聖アンブロシウス(イタリア語名はアンブロージョ Ambrogio)によって献堂され、その後、フィレンツェ司教聖ザノービの遺骸がサンタ・レパラータ教会に移管されるまでの300年間にわたって、フィレンツェ最初のドゥオーモ(duomo 司教座教会)として利用されました。


ブルゴーニュのジェラール司教がニコラウス2世の名で教皇となった際には、教会の拡張工事が行われ、1059年に再度献堂されました。この際、司教座聖堂参事会集会所とともに教会の脇に回廊が建設されました。


15世紀初めには司教座聖堂参事会員は聖堂のさらなる拡張を決定し、1421年8月10日、拡張工事の開始を祝福するための式典が執り行われました。この拡張工事に財政的支援を行なった出資者のなかに、この地域に住んでいた極めて裕福な銀行家ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチがいました。


メディチ家の依頼を受けて、教会改築の設計を任されたのが、「ドゥオーモのクーポラ」を手がけた(そして旧聖具室を設計した)フィリッポ・ブルネッレスキでした。しかし、教会が完成したのはブルネッレスキの死後である1461年で、ブルネッレスキの死後は、ミケロッツォ・ミケロッツィらに工事は引き継がれました。


(3枚目)

しかし、教会のファサードは未完成のレンガ積みのまま残されていました。1516年にメディチ家出身の教皇レオ10世がミケランジェロに設計を委ねましたが、ミケランジェロは木製の模型を作るものの、技術的、財政的問題のため、完成するには至りませんでした。


こうした歴史からだけでなく、教会の前がメディチ家のリッカルディ宮殿であることからも、また教会の背後にメディチ家礼拝堂が隣接していることからも、ここがメディチ家の菩提寺であることがわかります。


(4枚目)

ルネサンス様式の堂内は、古典的な半円アーチと円柱によってリズミカルな水平方向への運動を強調しているために、尖塔型アーチを用いて垂直方向を強調したゴシック様式とは対照的な印象があります。天井も床面と水平な格縁になっていて、堂内に入った者の視線は自然に前方の主祭壇に向けられます。堂内全体の建築には、ピエトラ・セレーナ(pietra serena)という青みがかった明るい灰色の石がふんだんに使われています。


(5枚目)

堂内中央の左側廊と右側廊に一対の箱形をしたブロンズ製の説教壇《復活の説教壇》(右側廊)と《受難の説教壇》(左側廊)があります。ドナテッロの最晩年の作で、スキアッチャートと呼ばれる浅浮き彫りの表現にぜひ注目してください。写真は《受難の説教壇》です。


(6枚目)

また、主祭壇の手前の床に、大きなメディチ家の紋章(ヴェッロッキオ作、1467)と「祖国の父コジモ」の墓を示す円形パネルが嵌めこまれています。


(7枚目)

左手奥にある旧聖具室(Sacrestia Vecchia 1419- 1428)はブルネッレスキの設計ですが、実際には教会ができ上る前に完成していますから、フィレンツェに登場した最初のルネサンス空間だったといえるでしょう。空間は明快で、正方形プランの4辺に各辺を直径とするアーチを架け、その上に半球形の円蓋をのせ、四隅を三角形のペンデンティヴで支えています。装飾は極力抑えられていますが、2枚のブロンズ扉とメダイヨン(円形装飾)はドナテッロが担当しています。


(8枚目)

聖具室を入ってすぐ左手にあるモニュメントは祖国の父コジモの息子であったピエロとジョヴァンニの墓廟に捧げられた、アンドレア・デル・ヴェッロッキオの傑作(1472)です。制作にはヴェッロッキオのエ房にいたレオナルド・ダ・ヴィンチも参加しており、ウッフィーツィ美術館所蔵の『受胎告知』の中に、マリアの書見台として描いています。










サン・ジョヴァンニ洗礼堂の起源は4世紀から5世紀までさかのぼり、ローマ人たちが軍神マルスに捧げた神殿であったと思われます。


11世紀になると、そこにはフィレンツェの守護聖人である洗礼者聖ヨハネ(San Giovanni Battista)に捧げるべく、八角形プランの大聖堂(司教座聖堂)に改築され、同時に現在のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の前身にあたるサンタ・レパラータ聖堂(発掘された遺跡を大聖堂の地下に見学できます)の建設が開始されました。


1128年にサンタ・レパラータ教会が完成すると、サン・ジョヴァンニ大聖堂は「大聖堂」の座を新築のサンタ・レパラータに譲り、受洗の場としての「洗礼堂」となります。


ビザンティン様式の影響を受けたロマネスク建築の洗礼堂は、外観は連続する半円アーチと、緑色と白色の大理石による幾何学デザインでシンプルにまとめられていますが、堂内に入ると、天井はすべて黄金に輝くガラス・モザイク画で覆われた別世界です。このモザイク画制作はヴェネツィアからの応援もあったとはいえ、フィレンツェの画家コッポ・ディ・マルコヴァルドやチマブーエらも参加したフィレンツェ美術の原点といえる13世紀から14世紀にかけての一大事業でした。


政治的抗争に巻き込まれ、フィレンツェを1302年に追放されて北イタリアで流浪の日々を送っていた詩人ダンテ・アリギエーリ(1265〜13311)にとっても、サン・ジョヴァンニ洗礼堂は文学的イメージの源泉であったようです。ふろさとの洗礼堂を「麗しき私のサン・ジョヴァンニ」と呼び、「洗礼の日、深い聖盤の中にはまってしまって溺れかけた子供を、私自身がそれを壊して救った」(『神曲』地獄篇 第十九歌)ことを懐かしく思い出しながら、ダンテはラヴェンナで 『神曲』を執筆しました。


<天井モザイク画の主題>

1. 最後の審判

2. 天使の位階(イエスの両隣に、熾天使(赤)、智天使(青)。イエスから反時計回りに、主天使、能天使、大天使、天使、権天使、力天使、座天使。階級の高い天使が、よりイエスの近くに描かれています。)

3. 創世記

4. 聖ヨセフの物語

5. 聖母マリアとキリストの物語

6. 洗礼者ヨハネの物語