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父ロレンツォ・イル・マニーフィコの才能を継いて子供の頃から英才ぶりを注目された次男ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は、ポリツィアーノやベルナルド・ドヴィツィ(のちのビッビエーナ枢機卿)を家庭教師として恵まれた人文主義教育を受け、7歳で聖職に入りました。


マニーフィコは、早くからジョヴァンニのために各地の修道院長の聖職禄や参事会職を獲得することに異常なほど熱を入れました。教皇インノケンティウス8世と縁戚関係を結ぶことに成功すると(1487年、マニーフィコの娘マッダレーナがインノケンティウス8世の庶子フランチェスケット・チーボと結婚)、直ちにインノケンティウス8世にたいして当時13歳のジョヴァンニの枢機卿昇任を働きかけました。


そして、2人の後押しにより、父の死の1ヵ月前の1492年3月、フィエーゾレのバディアで史上最年少(16歳)の枢機卿として叙任されました。


父の死後、ジョヴァンニはフィレンツェに戻り、しばらく兄ピエロや弟ジュリアーノとメディチ邸で過ごしましたが、1494年11月にメディチ家が追放になると、ペルージャ、ウルビーノ、ミラノを転々とし、さらに1499年には、身の安全をはかるため、従弟ジューリオとともにドイツ、フランドル、フランスの諸都市を旅行しました。


1500年、アレクサンデル6世治下のローマに戻り、現在のマダーマ宮殿に居を構えると、従弟のジューリオ、秘書ベルナルド・ドヴィツィらとともに文人・芸術家や社交仲間に囲まれて、賛沢三昧な生活をおくりました。


1503年、アレクサンデル6世没後(正確にはわずか26日間在位したピウス3世の没後)のコンクラーヴェ(conclave, 教皇選挙会議)では、ユリウス2世擁立のために積極的に動き、兄ピエロの戦死後は、メディチ家の当主として、ユリウス2世の支持を受けてメディチ家復帰運動の中心的存在となりました。


1512年9月、18年ぶりにフィレンツェに戻ったジョヴァンニは、マニーフィコの時代以上に強力なメディチ体制を復活させ、弟ジュリアーノを表に立てながら実質的な統治者として君臨しました。


そして半年後の1513年3月、教皇ユリウス2世が死去すると、コンクラーヴェに参加するためにローマに向かいました。


このコンクラーヴェでは、当初、ジョヴァンニは教皇候補者としてさほど注目されていませんでした。しかし、枢機卿として20年以上の経験を積んでいたし、性格は快活で才知に富み社交的、そしてまだ30代にもかかわらず健康状態が優れない(在位期間が長期に及ばない可能性が高い)ことが幸いして、候補者として急速に浮上しました。


そして1週間の密室でのコンクラーヴェの後、ほとんど買収行為もないまま、レオ10世(在位1513〜21年)として史上最年少(37歳)で217代目の教皇に選出されました。


フィレンツェ市民も、この都市で初めての教皇の誕生に歓喜し、何日間も熱狂的な祝典が続きました。


レオ10世の即位は、いうまでもなくメディチ家の歴史において画期的な意義をもつ出来事でした。この教皇登位によって、メディチ家はイタリアとヨーロッパの王侯貴族と肩を並べる一族となり、またフィレンツェと教皇領の両方を支配するイタリア最大の門閥となりました。

 






ジュリアーノの跡を継いでフィレンツェの統治者となったロレンツォ・イル・マニーフィコの孫ロレンツォ(Lorenzo di Piero de' Medici, 1492-1519)は、ジュリアーノとはあらゆる面で正反対の性格で権力欲が強く、父のピエロから尊大さと粗暴さを受け継いでいました。


2歳のときにフィレンツェを離れてローマで育ったロレンツォは、ローマでの享楽的生活に愛着をもっていましたが、叔父の教皇レオ10世の強い意思により、気が進まないまま21歳でフィレンツェの統治者となりました。


ロレンツォの行動は、もう一人の叔父の枢機卿ジューリオによって監督され、逐一ローマに報告されていましたが、ロレンツォはしだいに独裁的な傾向を強めました。野心家のロレンツォはウルビーノ公国獲得をめざしましたが、それはレオ10世のもくろみと一致しました。


領土的野心にたいして、かつてウルビーノ宮廷で公爵一族の厚遇を受けたジュリアーノは反対し、協力を拒否しましたが、ジュリアーノが死ぬと、フィレンツェ軍と教皇軍の総司令官を兼務していたロレンツォは、直ちに行動を起こしました。


ロレンツォは、1516年にウルビーノを攻め、ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレを追放して、強引に「ウルビーノ公」の称号を獲得しました。


1518年には、フランス王族との姻戚関係をさらに強固にすることを望んだレオ10世の政略で、ロレンツォはフランソワ1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドゥーヴェルニュと結婚しました。翌年には娘が産まれましたが、出産直後に妻は死亡、ロレンツォ自身もその1週間後に27歳の若さで亡くなりました(死因は梅毒といわれています)。


ロレンツォのあとには、女児カテリーナ(のちのフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス)が残されましたが、ロレンツォの早世によって、メディチ家兄脈の嫡子の血統は途絶えることになりました。


ロレンツォは、父ピエロ同様、芸術や文化のパトロネージには関心を示しませんでした。また、マキャヴェッリの著名な 『君主論』は、初めはジュリアーノに捧げられる予定でしたが、ロレンツォに献上されました。マキャヴェッリはロレンツォに新しい権力者像を期待しましたが、文化的なものに対して無関心だったロレンツォは、この革命的な書物にまったく理解も関心も示しませんでした。


レオ10世は、夭折した「ヌムール公」ジュリアーノと「ウルビーノ公」ロレンツォの墓碑の制作をミケランジェロに依頼しました。2人の墓碑は、サン・ロレンツォ聖堂新聖具室(メディチ家礼拝堂)にあります。最初の計画では、2人と同名の、ロレンツォ・イル・マニーフィコと暗殺された弟のジュリアーノの墓碑も作られるはずでしたが、実現せずに終わりました。


「ウルビーノ公」ロレンツォの死後、フィレンツェの統治はフィレンツェ大司教だったジューリオ枢機卿(Giulio di Giuliano de' Medici, 1478-1534)が行っていましたが、1523年にジューリオはクレメンス7世としてメディチ家2人目の教皇となりました。


フィレンツェの統治は「ヌムール公」ジュリアーノの庶子イッポーリトと「ウルビーノ公」ロレンツォの庶子(実際には教皇クレメンス7世の庶子)アレッサンドロに託され、幼少の2人の後見人として腹心の枢機卿がフィレンツェに派遣されました。


作品情報:

Ritratto di Lorenzo de' Medici duca di Urbino, Raffaello Sanzio, 1516-1519, Olio su tela, 97×79 cm, Sconosciuta

Tomba di Lorenzo de' Medici duca di Urbino, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm, Sagrestia Nuova, Basilica di San Lorenzo, Firenze







1512年9月1日、スペイン軍の脅威の前にソデリーニが亡命すると、同じ日に、スペイン軍に同行してきたロレンツォ・イル・マニーフィコの三男ジュリアーノ(Giuliano di Lorenzo de' Medici, 1479-1516)は私人としてフィレンツェに入りました。


ラルガ通りのメディチ邸では大急ぎでメディチ家の紋章の修復が行われましたが、ジュリアーノは、貴族的権威のシンボルである顎ひげを剃り落し、目立たない格好で、自邸ではなく友人のアルビッツィ家の屋敷にひそかに入りました。


その2週間後の9月14日には、ジュリアーノとは対照的に、兄の枢機卿ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は1500人のスペイン兵を率いて入城し、支配者にふさわしい正装でメディチ邸に入りました。


ジョヴァンニはただちに共和制の機構を1494年以前の状態に戻し、18年ぶりにメディチ家のフィレンツェ支配が復活しました。表向きは共和制を保ちながら、重要な役職をメディチ派で独占しました。当主はジュリアーノでしたが、実権は補佐役を務めるジョヴァンニ自身が握っていました。


1512年の時点で、メディチ本家には4人の若いメンバーが存在しました。ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男の枢機卿ジョヴァンニ(37歳)、その弟の三男ジュリアーノ(34歳)、彼らの従弟ジューリオ(34歳、イル・マニーフィコの弟でパッツィ家の陰謀事件で殺されたジュリアーノの庶子)、そして死んだ長男ピエロの息子口レンツォ(20歳)です。


初めの半年間はジョヴァンニとジュリアーノが共同で統治していましたが、翌1513年、教皇ユリウス2世が亡くなると、ジョヴァンニは後継者に選ばれ、レオ10世として教皇位に就きました。


教皇レオ10世は、柔和な性格の弟ジュリアーノは支配者には向かないと判断して、甥のロレンツォにフィレンツェの統治を委ねました。そして従弟のジューリオをフィレンツェ大司教・枢機卿に任じて、その補佐役としました。


そしてロレンツォが1519年に早世すると、フィレンツェの統治はジューリオ枢機卿が行いましたが、教皇レオ10世の没後ジューリオが教皇に選ばれてクレメンス7世となってからは、ジュリアーノの庶子イッポーリトとロレンツォの庶子(実際には教皇クレメンス7世の庶子)アレッサンドロを後継者とし、ローマから間接的に統治しました。


父マニーフィコから「心優しい」子として特別に可愛がられ、ポリツィアーノを家庭教師として育ったジュリアーノは、穏健で繊細な、教養と文才に富んだ魅力的な貴公子として知られ、戦争や権謀術数よりも私的な快楽と賛沢な社交生活を好む人物でした。


当主の地位を退いてローマに移ったジュリアーノは、兄レオ10世より教皇軍総司令官に任命されましたが、もともと軍人という柄ではなく、公務に励むよりも、イタリア各地から集まった芸術家や文化人でにぎわう教皇の宮廷で、華やかな文化生活を楽しみました。


1515年、フランス国王ルイ12世が死去して若いフランソワ1世が即位すると、ジュリアーノは、兄の意向でフランス国王フランソワ1世の叔母フィリベルタ・ド・サヴォアと婚約し、2月にはトリノで結婚式を挙げました。そして同年、「ヌムール公」の称号を授けられました。


この結婚は明らかに政略結婚で、メディチ家とフランス王族との将来にわたる国際的血族関係を形成する第一歩として重要な意味をもっていましたが、結婚からわずか1年後の1516年、ジュリアーノは37歳の若さでフィレンツェで夭折しました。あとにはウルビーノ時代にもうけた庶子イッポーリトが残されました。


作品情報:

Ritratto di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Raffaello Sanzio, 1515 circa, Tempera e olio su tela, 83,2x66 cm, Metropolitan Museum of Art, New York, Stati Uniti

Tomba di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm, Sagrestia Nuova, Basilica di San Lorenzo, Firenze







ロレンツォ・イル・マニーフィコが死去すると、20歳の若さで長男のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Piero di Lorenzo de’ Medici, 1472-1503)がメディチ家の権力を継承しました。


父ロレンツォは常日頃、3人の息子のことを「一人は愚かで(ピエロ)、一人は賢く(ジョヴァンニ)、もう一人は心優しい(ジュリアーノ)」と評していたといいますが、その言葉通り、ピエロはメディチ体制を引き継ぐにはまったく不適格な人物でした。


ピエロは、メディチ家の当主としては珍しく美男で、ポリツィアーノを家庭教師として人文主義的な教養を身につけていましたが、性格は尊大で、父のような人間的な魅力はまったく備えていませんでした。


政治は父の秘書であったピエロ・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ(弟ジョヴァンニの側近で後にビッビエーナ枢機卿となるベルナルド・ドヴィツィの兄)に、銀行業を大叔父のジョヴァンニ・トルナブオーニに任せきりで、自らは私的な享楽に熱中しました。


自分本位で軽率な行動のためにメディチ派の有力者の反感を買い、「弟脈」のロレンツォとジョヴァンニ・ディ・ピエルフランチェスコ兄弟との対立も深刻化していきました。このため、ピエロは「愚昧な(il Fatuo, イル・ファートゥオ)」と通称されます。


1494年、ナポリ王フェランテが没すると、フランス国王シャルル8世はアンジュー家から相続したナポリ王位の継承権を主張して、9月、大軍を率いてアルプスを越え、ナポリを目指して進軍を始めました。


10月には、ルドヴィーコ・イル・モーロの協力を得てミラノ領を通過。フィレンツェ領に近づいたシャルルはピエロに使節を送り、フランス軍の領内通過を許可するように求めましたが、ピエロは同盟国ナポリを支持してフランス軍のフィレンツェ領内通過を拒否し、抗戦の準備にかかりました。


しかし、フランス軍に抵抗すればフィレンツェは滅亡すると考えたピエルフランチェスコ兄弟らは、密かにフランス軍と連絡をとり、ピ工ロの追放を要請しました。


事態に窮したピエロは、一転して、シャルル王の陣営に自ら赴き、巨額の賠償金の支払いやピサとリヴォルノの支配権放棄など、屈辱的な条件でフランス軍の入城を承諾しました。


市民たちはこの独断的行動に憤激しました。11月8日、市政庁に報告するためにピエロはフィレンツェに戻ると一挙に不穏な状況が高まりました。彼の面前で政庁舎のの大扉は閉ざされ、鐘を聞いて広場に集まってきた市民に罵倒され、石を投げつけられました。


身の危険を察したピエロと2人の弟は、その日のうちにフィレンツェを去り、ボローニャに向かいました。市政庁はただちにメディチ家の永久追放令を発し、ピエロとジョヴァンニの首に懸賞金を課しました。ピエルフランチェスコ兄弟は「メディチ」の姓を民衆派を意味する「ポポラーノ」に変えて、邸宅の壁からメディチ家の紋章を取りはずしました。


その10日後の11月17日、シャルル8世の軍隊はフィレンツェに入城し、主のいないメディチ邸に本拠を置きました。メディチ家の財宝や蔵書の一部はピエロによって運び去られ、弟ジョヴァンニによってサン・マルコ修道院に隠されましたが、残された多くの財宝はフランス軍や市民によって略奪されたり、市政庁によって押収されてしまいました。


こうして、1434年からちょうど60年間フィレンツェを事実上支配してきたメディチ家の政権は終りました。この直接の原因は、ロレンツォ・イル・マニーフィコの早すぎた死と息子ピエロの指導者としての能力欠如、そしてシャルル8世の突然の侵攻に帰せられます。


メディチ銀行のネットワークも1494年をもって崩壊しました。ロレンツォ・イル・マニーフィコの晩年にすでにメディチ銀行は破産寸前の状態にあり、支店の半分は閉鎖されていました。


亡命したピエロは、教皇の支援のもとにロマーニャ地方の制覇を進めていたチェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の私生児)の軍と行動をともにしていましたが、1503年12月、ナポリ近くてフランス軍とスペイン軍が衝突した際にフランス軍に加わって敗れ、逃走中にガリリャーノ川で溺死しました。この不運な死により、ピエロは「不運の(lo Sfortunato, ロ・スフォルトゥナート)」とも呼ばれます。



1478年4月26日の「血の日曜日」に、大聖堂でのミサの最中、聖体を捧げる鐘を合図にパッツィ家を中心とする暗殺者がロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟を襲いました。しかし弟ジュリアーノは殺害したものの、ロレンツォには首に傷を負わせただけで、聖具室に逃げられてしまいました。計画では暗殺と同時に政庁舎を占拠して民衆に暴動を促すことになっていましたが、それにも失敗しました。


ジュリアーノ殺害の報を聞いた民衆の怒りは暗殺者たちに向けられ、その日のうちに捕らえられました。首謀者のフランチェスコ・デ・パッツィとピサ大司教は衣服をはがされ、首に縄をかけられて政庁舎の窓から吊されました。その後もロレンツォの報復はすさまじく、陰謀に加担したことを理由に処刑されたものは100人近くに上ったといわれます。パッツィ家の財産は没収され、家門は断絶されました。


こうして「パッツィ家の陰謀」は国内的には片づきましたが、陰の首謀者である教皇シクストゥス4世のメディチ家への憎悪をますます募らせることになりました。6月、彼はロレンツォとフィレンツェ政府を破門し、フィレンツェに宣戦を布告しました。フィレンツェは、教皇やナポリ王を相手に、2年近くにわたる戦いを強いられました。


窮地に追い込まれたロレンツォは、単身ナポリへ乗り込んでフェルディナンド1世と直接交渉する決心をしました。1479年12月に船でピサを出発した彼はおよそ2か月半ナポリに滞在し、時間と金がかかりましたが、辛抱強く交渉を続けました。そして、決してフィレンツェに有利なものではありませんでしたが、ついに停戦条約の締結にこぎ着けたのでした。


ロレンツォは祖父コジモが帰還したとき以上の熱狂で市民に迎えられました。彼はただちにバリーア(特別委員会)を設置し、市政府のメンバーを指名する機関として「七十人委員会」を設立しました。メディチ派で占められたこの委員会の任期は実質的に無期限で、こうして共和制フィレンツェにおけるメディチ家の支配体制はさらに強化されました。


その1年後、1480年には教皇庁とのあいだにも和平が成立しました(ロレンツォは次期教皇インノケンティウス8世とは友好的な関係を結び、次女をその息子と結婚させています)。各国が領土拡大の野心をもち、謀略渦巻くイタリアにおいて、五大国間の勢力が均衡を保ち、平和が維持されるように努めた彼の外交手腕は高く評価され、イタリアの「天秤の針」という名声を得ました。


ロレンツォ・イル・マニフィコ「il Manifico(豪華王/偉大王)」が君臨した時代のフィレンツェでは、ヴェロッキオ、ボッティチェッリ、レオナルドなど美術史上の巨匠たちが活躍し、若き日のミケランジェロもロレンツォが設立した「サン・マルコ庭園の彫刻学校」で学んでいました。また彼自身もメンバーだったプラトン・アカデミーを舞台にマルシリオ・フィチーノ、ピコ・デッラ・ミランドラなどの哲学者が研究に励んでいました。まさにルネサンスの最盛期であり、古代アテネ、ルイ14世時代のパリなどと並んで芸術文化の「黄金時代」とされています。


しかしこの黄金時代も長くは続きませんでした。ロレンツォには父ピエロと同じ痛風の持病がありましたが、病は年とともに重くなっていき、ついに1492年4月、家族や親しい友人たちに看取られながらカレッジの別荘で世を去ってしまいました。43歳の若さでした。遺体は弟ジュリアーノの眠るサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室に埋葬されました(1559年にミケランジェロ設計の新聖具室に移され、聖母子像の下に重ねて置かれました)。


その2年前から、サン・マルコ修道院のドメニコ会修道士サヴォナローラが、メディチ家支配下におけるフィレンツェ人の堕落した生活を厳しく弾劾していました。ロレンツォは自分を糾弾するサヴォナローラに寛容で、彼がサン・マルコ修道院の院長になることを容認しました。サヴォナローラはロレンツォの臨終に立ち会い、最後の祝福を与えました。




ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449〜1492年)は、「痛風病みの」ピエロの長男で、フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主です。


コジモが期待した孫のロレンツォが当主になったのは1469年。その時まだ20歳になったばかりでしたが、賢母ルクレツィア・トルナブオーニに将来の帝王に育てられた若き君主は、とにもかくにもフィレンツェ黄金時代を象徴する存在となりました。


子どもの頃から古典の教養を身につけただけでなく、一国の君主にふさわしい宮廷教育を授けられた彼は、病弱な父の名代として各地に派遣されるなど、政治的な経験も早くから積んでいました。一方、美貌ではありませんでしたが、弁舌巧みな伊達男としても知られ、乗馬や恋愛に青春を謳歌する若者でした。


フィレンツェの実質的な君主となったロレンツォは、政治家として祖父のコジモに劣らない器量の持ち主であることをすぐに示しました。1470年、反メディチ派が隣町のプラートで起こした反乱を鎮圧したのを機に、政府と議会を意のままに動かす体制を築いてしまいました。


ロレンツォがフィレンツェで権力基盤を着々と固めつつあった1471年、教皇シクストゥス4世が即位しました。きわめて野心的なシクストゥス4世は、イーモラを買収して甥(実子ともいわれる)のジローラモ・リアーリオに領地として与え、ミラノ公庶出の娘カテリーナ・スフォルツァと結婚させました。つながりの深いメディチ銀行が資金融資を求められましたが、イーモラは戦略上の要地であり、フィレンツェの安全にとって脅威となるため、ロレンツォがそれを拒否したため、教皇はメディチ銀行のライバルであるフィレンツェのパッツィ銀行に改めて融資を依頼しました。


3年後、教皇のもう一人の甥がフィレンツェ領の隣町に反乱鎮圧の名目で侵攻し、フィレンツェも軍を派遣したため、両者の緊張は一気に高まりました。ロレンツォが教皇国家の勢力拡大に対抗してヴェネツィア、ミラノと同盟を結ぶと、教皇もナポリ王国と同盟しました。また報復として、メディチ銀行がもっていた教皇庁での特権を取り上げ、パッツィ銀行に与え、パッツィ家に関係の深い人物をフィレンツェ支配下のピサ大司教に任命しました。


パッツィ家は先祖が第一次十字軍に参加した由緒ある貴族の家柄でしたが、当時は新参者のメディチ家に権力においても銀行家としても後れをとっていました。したがってこれはパッツィ家にとって積年の恨みを晴らす絶好の機会でした。しかしロレンツォはピサ大司教の入国を何年も拒みつづけたばかりか、パッツィ家の遺産相続にも介入しました。


これに怒りを募らせたフランチェスコ・デ・パッツィはジローラモ・リアーリオと共謀し、ロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟の暗殺を決意しました。計画にはピサ大司教と教皇軍の傭兵隊長も参加し、ロレンツォを憎んでいた教皇も暗黙の了解を与えました。


作品情報:

Ritratto di Lorenzo il Magnifico, Giorgio Vasari, 1534 circa, Olio su tavola, 90 x 72 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze




ピエロ・ディ・コジモ・デ・メディチ(Piero di Cosimo de' Medici, 1416〜1429年)は、「祖国の父」コジモの長男で、「痛風病み ‘il Gottoso’」というあだ名のとおり若い頃から病弱でした。


コジモにはピエロとジョヴァンニという2人の嫡出の息子がいましたが、ジョヴァンニはコジモの死の前年、1463年に42歳で世を去りました。予期せぬ次男の死にコジモは嘆き、コジモは死の床で、自分と同じく痛風に苦しむ長男に、重い責務を残すことになったことを悔いました。弟の死によって、メディチ銀行の経営もピエロの肩にのしかかりました。


残念ながら、病身のピエロは、銀行経営においても政治においても父ほどの器量はもちあわせておりませんでした。


父の死後、ピエロは48歳でメディチ家の当主を継ぎます。名ばかりのものになっていたとはいえ、共和制のフィレンツェでは権力が世襲される保証はありませんでした。コジモの存命中は抑えられていた反メディチの動きがにわかに活発となり、1466年にコジモと親しかったミラノ公フランチェスコ・スフォルツァが亡くなると、反メディチ派はピエロ打倒に動き出しました。


一方のメディチ派も対抗し、市内には一触即発の緊張が高まりましたが、有力者の一人ルーカ・ピッティ(ピッティ宮殿を建設した人物)の寝返りによって反メディチ派は総崩れとなりました。こうしてピエ口は何とか政治危機を乗り切り、メディチ家の支配体制が確立されました。


当主になってわずか5年後の1469年12月、ピエ口は53歳で世を去りました。ピエロの手腕のほどを評価するには早く世を去りすぎていますが、メディチ家の屋台骨がしっかりしているうちに、有能な息子ロレンツォに譲り渡したことは、フィレンツェにとっても決してマイナスではありませんでした。サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室にある墓廟は、貴族的な趣味の持ち主だったピエロにふさわしい豪華なものです。


ピエロに政治影響力はありませんでしたが、ベネッツォ・ゴッツォリ、サンドロ・ボッティチェッリを見出すなどのパトロン活動は活発でした。また豪奢な書斎(scrittoio)をメディチ邸の2階に作らせるなど、コレクターとしても知られています。


1444年にルクレツィア・トルナブオーニと結婚し、6人の子をもうけ、4人が成人しました。


作品情報:

Ritratto di Piero il Gottoso, Agnolo Bronzino, Olio su tela, National Gallery, Londra

Tomba di Piero e Giovanni de' Medici, Andrea del Verocchio, Sagrestia Vecchia, Basilica di San Lorenzo, Firenze






コジモがフィレンツェに帰国した後、メディチ家の独裁時代が始まりましたが、法制的にも形式的にも、その前の時代と何も変わったところがありませんでした。帰国してから死ぬまでの約30年間にコジモが正義の旗手の地位に就いたのは断続して3期、計6ヶ月に過ぎません。生涯のほとんどを単なる一市民、一銀行家として過ごしたわけですが、彼の実質的な独裁権は30年間揺るぎませんでした。


コジモが政治家として実現した最大の業績は、国内外の平和でした。彼が権力を掌握して以来、内紛暴動は跡を絶ち、市民は平和に労働にいそしむことができました。しかし他国との戦争がなかったわけではなく、1440年には何度かの対ミラノ戦(後にレオナルドの壁画で有名になるアンギアーリの戦い)があり、この時はフィレンツェ軍が勝利して共和国の領土を増やしました。コジモは本来戦争を好まず、領土を増やすにしても、同年のサンセポルクロの場合のように、金で買収する手法を好んでいました。そして、金の力を巧みに利用しながらイタリア半島の平和を構築しました。1454年、ミラノ、ヴェネツィア間の「ローディの和」が成立し、翌年、それにナポリ、フィレンツェ、ローマを加えた五大国間の平和協定が成立しました。コジモがこの協定のために精力的に尽力したことは言うまでもありません。


メディチ財閥の事業も、コジモのもとに隆盛発展を続けました。1436年には絹織物業にも本格的に進出し、メディチ銀行の国外支店の数も増え続けました。サン・マルコ修道院図書館長に任じていた聖職者が出世して教皇ニコラウス5世となったので、教皇庁との関係はいっそう密接となり、ローマ支店の業績はますます良好となり、ヴェネツィアとブリュージュの支店がこれに次ぎました。1435年のジェノヴァを皮切りに、1441年ピサ、1446年ロンドンとアヴィニョンに相次いで支店を開業し、これらの支店網はそのままメディチ家の資金源であり情報網であり、銀行業務はそのまま貿易も兼ねました。1452年にはついにミラノにメディチ銀行支店が発足されましたが、これは、フィレンツェとミラノの長年の敵対関係に終止符が打たれたことを示していました。


コジモは学問の分野でも美術の分野でも、新しい潮流を積極的に擁護し、理解し、後援しました。そして、この莫大な富を背景に、パトロンとしてフィレンツェの芸術文化に多大な功績を残しています。


まず建築の分野では、メディチ家の菩提寺ともいうべきサン・ロレンツォ聖堂がフィリッポ・ブルネッレスキの設計で改築され、サン・マルコ修道院の再建工事もブルネッレスキの弟子ミケロッツォ・ミケロッツィの設計で行われました。またラルガ通りのメディチ・リッカルディ宮殿は彼の富と権力の象徴というべきもので、フィレンツェ最初のルネサンス様式の邸宅です。ブルネッレスキの設計案があまりにも豪華だったため、市民の嫉妬をかわないよう、ミケロッツォに改めて設計を依頼したという逸話が残っています。


古典の教養が深かったコジモは古典文献の蒐集に熱心でした。その800冊以上の蔵書を収めるためにサン・マルコ修道院内につくられた図書館はヨーロッパ最古の公共図書館です。


また古典学研究にも援助を惜しまず、1439年にフィレンツェで開催されたカトリック教会と東方正教会の合同公会議にコンスタンティノープルから著名なプラトン学者がやってきたのをきっかけに、私的サークル「プラトン・アカデミー」を創設しました。


1464年8月、コジモは75歳の生涯を終えました。遺体はサン・ロレンツォ聖堂に葬られ、全市民が哀悼し、共和国政府はその業績を称え、「祖国の父」という尊称を贈りました。


コジモの墓碑(アンドレア・デル・ヴェロッキオ作)は、サン・ロレンツォ聖堂の身廊と翼廊が交わる交差部、祭壇の真正面にあります。この場所は、通常、教会が捧げられた聖人の遺体や聖遺物を安置するための場所ですので、このような場所を占拠していること自体が、コジモの権力、そしてメディチ家とサン・ロレンツォ聖堂の深い繋がりを表しています。ただし、この墓碑は墓の目印に過ぎません。墓碑の真下には地下祭室(cripta クリプタ)の支柱があり、コジモの墓はその中にあります。







コジモ・デ・メディチ(Cosimo di Giovanni de' Medici, 1389〜1464年)、通称イル・ヴェッキオ(il Vecchio)は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチの長男で、父の生前から銀行業務を任され、優れた経営手腕を発揮していましたが、深い古典的な教養の持ち主でもありました。


コジモはさまざまな人脈を通じて支持者を集め、ジョヴァンニが1429年に世を去ったとき、新興派閥のメディチ派はアルビッツィ派に対抗しうる一大勢力となっていました。


1429年、フィレンツェはルッカ攻略をしかけましたが、アルビッツィ派の思惑に反してうまくゆかず、戦況は一進一退、共和国の経済不況は深刻化しました。多額の戦費を使ったあげく4年後の1433年、「すべてを戦前の状態に戻す」という条件でルッカと和解しましたが、それでは何のために戦争したのか分かりません。重税に苦しむ市民たちのあいだに不満が高まり、この戦争に対して終始批判的な態度を取ってきたメディチ派に期待が集まりました。


コジモを倒す機会をねらっていたアルビッツィ家の当主リナルドは、1433年9月、メディチ派を参加させずに緊急市民集会を開き、バリーア(特別委員会)の設置を決めました。コジモは逮捕され、政庁舎の鐘楼の一室に20日間監禁されました。リナルドはコジモを政府転覆の陰謀を理由に死刑にすることを主張しましたが、穏健な処分を求める世論に屈し、最終的にはパドヴァへの10年間の追放刑が科せられることになりました。


コジモはパドヴァにしばらく滞在したあと、ヴェネツィア政府の強い働きかけにより、弟ロレンツッォの亡命先であるヴェネツィアに移りました。ヴェネツィアはメディチ銀行と関係が深かったため、コジモは歓待され、何一つ不自由のない亡命生活を送ることができました。


コジモの亡命の1年間、フィレンツェの経済は好転せず、不況が続いたので、政府への不満は極限に達し、メディチの帰国を望む声が大ぴらに聞こえるまでになりました。1434年8月、次期の政府役職選挙はアルビッツィの必死の工作にもかかわらずメディチ派が勝利し、メディチ派が多数を占める政府が成立しました。市民集会が開かれ、再びバリーアが設置され、メディチ家追放の取り消しと、アルビッツィ派70人以上の追放が決議されました。10月初め、コジモは帰国の途につきました。


こうしてコジモはフィレンツェの実質的な支配者となりましたが、あくまで一般市民としてふるまい、表向きはそれまでどおりの共和国体制が維持されました。有資格者の名札を袋に入れて政府の役職に就く人を抽選するという方式は変わりませんでしたが、メディチ派で占められた選挙準備委員会によって袋に入れる名札はコジモの息のかかった人物にかぎられました。


作品情報:

Ritratto di Cosimo il Vecchio, Pontormo, 1519-1520 circa, Olio su tavola, 86×65 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze




ジョヴァンニ・デ・メディチ(Giovanni di Bicci de' Medici, 1360〜1429年)、通称ジョヴァンニ・ディ・ビッチは、フィレンツェの歴史に名を刻むメディチ家の当主で、一族の繁栄を築いた人物です。


ジョヴァンニは、親戚がローマで経営していた銀行を引き継ぎましたが、1397年に本店をフィレンツェに移しました。これが事実上の「メディチ銀行」の創設となります。


メディチ銀行は飛躍的な発展を遂げ、フィレンツェ有数の大銀行になりましたが、それにはローマ教皇庁とのつながりが大きな役割を果たしています。ローマで働いていた頃から教皇庁の金融業務に深くかかわっていたジョヴァンニは、1410年に親しい枢機卿バルダッサーレ・コッサがヨハネス23世として教皇の位に就くのを助けました。こうしてメディチ銀行は教皇庁会計院の財務管理者となり、教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功しました。


醜聞にまみれた人物だった対立教皇ヨハネス23世は1415年に廃位させられ、殺人、男色などの罪で幽閉されてしまいましたが、ジョヴァンニは多額の保釈金を支払って解放し、フィレンツェに迎えました。その死後にはサン・ジョヴァンニ洗礼堂内にドナテッロとミケロッツォ設計の豪華な墓廟まで建設しています。


その一方で、ジョヴァンニは次の教皇マルティヌス5世とも良好な関係を保ち、メディチ銀行はその後も半世紀以上にわたって教皇庁の財務管理者として巨額の利益を上げました。


ジョヴァンニは両替商組合(Arte del Cambio)のプリオーレ(Priore, 執政官)に3回(1402, 1408, 1411年)就任するなど共和国の要職を歴任し、1421年には「正義の旗手(Gonfaloniere di Giustizia)」も務めています。しかしこれは有力市民としての義務を果たしただけで、自ら地位を望んだのではありませんでした。ジョヴァンニは与えられた仕事を誠実に行いながらも要求されたこと以上は行いませんでした。


1422年には、教皇マルティヌス5世はモンテ・ヴェルデ伯の称号を授けようとしますが、ジョヴァンニは政治的な配慮から爵位を辞退し、一市民の立場にとどまりました。


当時のフィレンツェではアルビッツィ家を中心とする少数の有力門閥による寡頭政治が行われていましたが、彼はどの権力者とも一定の距離を保ち、政治に深入りすることを避けました。巨万の富を蓄えたうえに大衆に人気もあったジョヴァンニが政治的野心を示せば財産没収、国外追放となる恐れがあったためです。したがってジョヴァンニの生き方は実に賢明だったといえるでしょう。


1429年、ジョヴァンニは69歳でその生涯を閉じました。その際、離散したメディチ家の一族、教皇代理、諸外国の大使、フィレンツェの有力者たちが参列し、一代で巨富を築いたジョヴァンニの交際範囲の広さを見せつけました。


ジョヴァンニは、フィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室に妻ピッカルダ・ブエーリと共に埋葬されています。