Let's go to Italy!

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アンドレア・デル・サルトの代表作であるこの油彩の祭壇画は、1515年5月にフィレンツェのサン・フランチェスコ・デ・マッチ女子修道院が注文し、1517年に完成しました。


1515年5月14日の注文の契約によれば、板絵は2人の天使によって戴冠される聖母と幼子イエス、両側に福音書記者聖ヨハネと聖ボナヴェントゥーラを描き、1年以内に引き渡されるはずでした。


しかしながら、作品には1517年の年記があり、福音書記者聖ヨハネと聖フランチェスコのあいだに聖母子を描くものとなりました。


聖母子の立つ多角形の台座の隅には、画題にもなっているハルピュイアの彫刻が施されています。ハルピュイアとは、ギリシア神話に登場する、女の顔と鳥の体をもつ怪物です。


中央にある画家の署名の下には、聖母被昇天の賛歌の最初の言葉が記されています。したがって作品は聖母載冠ではなく聖母被昇天となっています。

""AND.[rea del] SAR.[to] FLOR.[entinus] FAC.[iebat] / AD SUMMUM REGINA TRONUM DEFERTUR IN ALTUM M.D.XVII.""


少なくともジョルジョ・ヴァザーリやフィレンツェの同時代人は、この怪物をハルピュイアだとみなしていましたが、現代では『ヨハネの黙示録』の9章に登場する「いなご」を表現しているのではないかと考える美術家もいます。


図像全体は『ヨハネの黙示録』の第9章に通じるものと思われ、この絵の中で聖ヨハネは「第五の天使がラッパを吹いた。[中略] 底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り」という予言的な一節を読んでいるところと推測できます。


したがって、台座の怪物は、この煙から地上に出てきて「額に神の印」が押されていない人間たちを苦しめたという「いなご」と考えられます。


「いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。」と『黙示録』に記述されています。


台座はおそらく底なしの淵の穴の蓋で、ここで聖母は邪悪な力を踏みつけ、2人の天使は蓋を閉じる聖母に手を貸しています。


この作品はまさしくアンドレアの歩みの到達点であり、チンクエチェント(16世紀)初頭の芸術制作上のもっとも意味深い体験を高いレベルで円熟させたことを明示しています。


卓越した色彩の豊かさは、ヴァザーリがかつて、「独得で、まことに類まれな美しさがある」と称賛しました。


聖母の像は、幼子イエスの重さとバランスをとった十字構成のなかに収まり、衣服の強烈な赤が画面中央を照らし、その赤色はまた、マントの褪せた青や、肩にかかる襞をよせた薄布の鮮明な黄色と調和して和らげられています。黄色の布の上には、頭部を覆う白いヴェールの簡素ながら非常に美しい衣文が見られます。幼子イエスはよく描かれるような赤子姿ではなく、やや成長した姿で描かれています。


聖母の左手には、聖ヨハネが朱色がかった赤のマントをまとい、その赤はきわめて洗練された玉虫色の襞によって、衣服の薄紫色と溶け合っています。


反対側では聖フランチェスコが、多様に変化する精巧な色調によって、背景の建築物の上に際立った明確な旋律を形づくっています。


この絵の制作に当たって主題を練り上げたのはおそらく神学者アントニオ・ディ・ロドヴィーコ・サッソリーニでしょう。彼は1515年から1519年にかけてトスカーナ地方のフランチェスコ修道会の総会長であり、サヴォナローラの説教に感銘を受けた人物でした。


作品情報:

Madonna delle Arpie, Andrea del Sarto, 1517, Olio su tavola, 207×178 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 58), Firenze








この祭壇画はピエロッツォ・テダルディがフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会内の同家の礼拝堂用に依頼したものです。その後、1670年に枢機卿レオポルド・デ・メディチによって購入され、1804年には、現在のウッフィーツィ美術館に移動されました。


キリストの受肉を表したきわめて稀な主題で、この絵画以前には存在していませんでした。一風変わったことで有名なピエロにとって、この主題を描くという挑戦は、愛おしいものでした。


天から鳩の姿をした聖霊が降りてきて、神秘の光がこの場を照らし出します。この瞬間、マリアはヨセフとの交わりのないまま、聖霊によってイエスを身ごもりました(処女懐胎)。


台座にはまさにこの受胎告知の瞬間が浮き彫りで表され、その上に立つ聖母は恍惚としたまなざしで天を仰ぎ、身ごもった腹部に手を置いています。


画面は巧みに構成されており、谷間によって分かたれた2つの岩山に「キリストの降誕」と「エジプトへの逃避」の光景が描かれ、これからイエスとともに歩む苦難の道のりが暗示されています。


手前には貞潔を守った2人の聖女がひざまずき、聖母の純潔を暗示します。


聖カタリナは棕櫚の小枝と聖書を持ち、足元には彼女のシンボルである歯のついた車輪の断片が見えます。


聖マルガリタは真珠の数珠と、彼女を呑み込んだ竜を退治した十字架を持っています。


画面の左には福音書記者聖ヨハネが立ち、その背後に彼の象徴であるワシがいます。彼はマリアの子宮を指差し、救世主の到来を暗示しています。また一説によれば、このしぐさは、『ヨハネの黙示録』第12章に記してある「太陽をまとった女」が神の母を象徴する聖母の姿であることを示しています。


ヨハネの後ろの人物は聖フィリッポ・ベニッツィで、剃髪、修道服、そして純潔を象徴するユリの花が持物(アトリビュート)です。彼はマリアの下僕修道会の指導者で、1285年に死去し、17世紀になって列聖されますが、ルネサンス期のフィレンツェではつねに崇敬された聖人でした。


マリアの永遠の処女性は、1243年にモンテ・セナリオ修道院で隠遁生活を始めたこのマリアの下僕修道会士らにとりわけ強く主張され、背景右手に表された建物をこの修道院と見なす説もあります。


画面右側に天国の鍵を持つ聖ペテロが立っていますが、彼はサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の権威や正統性を示すのに不可欠です。というのも、慎ましい漁師の容貌は、おそらく注文主のピエロッツォ・テダルディの肖像と推測されるからです。


その後ろにいる人物は、フィレンツェの大司教でサン・マルコ修道院長でもあった聖アントニウスです。


作品情報:

Incarnazione di Cristo e santi, Piero di Cosimo, 1500-1505, Olio su tavola, 206x172 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 28), Firenze










これは、ベルナルド・デル・ビアンコにより、フィレンツェのバディア・フィオレンティーナ教会内の彼の礼拝堂用のために依頼された作品で、心酔していた修道士サヴォナローラの死後、フラ・バルトロメオが初めて描いた作品です。


契約は、フラ・バルトロメオが下絵として用意した素描を見て注文主が合意したのち、1504年11月18日に交わされました。その下絵は、画面中央に聖母子、その左側に聖ベルナルドゥスと聖フランチェスコ、右側に聖バルナバと聖べネディクトゥスがいるというものでした。


しかしこの板絵は、報酬に関して、契約書の記載内容とは一致せず、長いあいだ折り合いがつかなくて、1507年になってやっと礼拝堂に収められました。


この主題は、トスカーナ地方ではフィリッポ・リッピ、フィリッピーノ・リッピ、およびペルジーノらが描いており、よく知られていました。


フラ・バルトロメオの作品では、聖ベルナルドゥスがシトー派修道会の白い衣をまとい、恍惚としてひざまづき、両手を広げています。


彼の前には現れた幼児キリストを腕に抱いた聖母は、大勢の天使に支えられて宙に浮かんでいます。


ベルナルドゥスは讃美『女王万歳』を聞き、その歌詞を書き写しますが、この出来事は、天使の1人が開いて読んでいる書物によって暗示されているようです。


別の書物が聖べルナルドゥスの近くにありますが、これは、この聖人の知恵と世に知られた彼の雄弁さを示唆しています。


さらに別の1冊が、閉じられた状態で携帯用の小祭壇画にもたせかけてあり、小祭壇画は、まるで細密画のように、キリストの傑刑が緻密に描かれています。


聖ベルナルドゥスの背後に2人の聖人がおり、この幻視の場に立ち会っています。ひとりは初期キリスト教時代の伝道者である聖バルナバで、書物を手にしています。もうひとりは西欧における修道院制度の創始者である聖べネディクトゥスで、伝統的な黒い法衣をまとっています。


2人の聖人の後ろの岩山には、聖痕を受ける聖フランチェスコが見えます。ドメニコ会の修道士であったバルトロメオは、聖ベルナルドゥスと聖フランチェスコを共に描くことによって、当時抗争が絶えなかった三修道会の平和を祈った、と考える学者もいます。


3段からなる大理石の床が、両面中央に広がる風景と聖なる空間とを分けています。遠くに村があり、その向こうには青みがかった山々が見えます。


この絵の構図は画面左端にあるルネサンス様式の建築物と、画面右端にある樹木の生えた岩山によって締めくくられます。聖ベルナルドゥスが世俗世界から離れて精進した様子を表すために、この空間を最大限に活用しました。


作品情報:

La visione di San Bernardo, Fra Bartolomeo, 1504-1507 circa, Olio su tavola, 215×231 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 41), Firenze

 










コジモ・デ・メディチの尽力によって、1439年の東西教会公会議は、フィレンツェで開催されました。感動的な公会議の歴史的舞台にフィレンツェが躍り上がった時の記憶を、そして、その晴れ舞台を誘致したメディチ家の存在を、コジモの息子ピエロは、壁画に描きとどめたいと思いました。


ピエロは、ミケロッツォ・ミケロッツィの設計で建てられたメディチ宮殿が完成するかしない1459年、宮殿内に設けられた2階の家族礼拝堂をフレスコ画で飾る仕事を、ベノッツォ・ゴッツォリに依頼しました。


私的な宗教空間であり政治的な会合の場所でもあった礼拝堂に、ゴッツォリは《三王の旅(東方三博士の旅)》を描きました。壁画制作は1462年までかかりましたが、コジモはそれを見て世を去りました。


ゴッツォリはフラ・アンジェリコの弟子ですが、華麗でモニュメンタルな風俗絵巻を描かせたら師匠の上で、マザッチョの出現で価値が失われつつあった後期国際ゴシック様式の宮廷絵画風の味つけが蘇りました。


この礼拝堂では祭壇のある北側以外は、すべての壁面が一続きの場面として表されています。入って右側の壁面の、城壁で囲まれたトスカーナの小都市のような外観をもつエルサレムから始まって左に向かって進み、最後は方形の祭室の壁で終わります。


そこに置かれた祭壇画《キリストの降誕》(ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノ作。フィリッポ・リッピの原作は現在ベルリン国立美術館所蔵)では、バラの垣根で囲まれた庭の中で、ベツレヘムで生まれた幼児イエスを天使たちが崇める様子が表されています。


一説では、三王のうち年長の2人の王メルキオール(西側、老人の姿)とバルタザール(南側、壮年の姿)の一段と豪奢でエキゾティックなイメージには、1439年の東西教会公会議に参加したコンスタンティノープル総主教とビザンティン皇帝ヨハネス・パレオロゴス8世の姿が、若い王カスパール(東側、青年の姿)にはピエロの長男口レンツォ・イル・マニーフィコの姿が描き出されているとされますが、これには異論も多くあります。


いちばん若い王につき従う一行のなかにはさまざまな肖像が見られ、そのなかにはメディチ家の代表的な人物がいます。コジモは美しく飾られた茶色の驢馬にまたがり、その右隣には、絵の発注者であるピエロが赤い頭巾をかぶって白馬にまたがっています。


群像中にはゴッツォリの自画像が見られ、赤い帽子には「OPUS BENOTII(ベノッツォの作)」と記されています。


この主題は、フィレンツェでもっとも盛大な宗教祝祭のひとつで、1月6日に祝われるキリスト教の祝日「公現祭(Epifania エピファニーア)」に関連しています。メディチ家はこの祝祭の主催者である「東方三博士同信会」の幹部でもあり、コジモ自身、1446年の仮装行列には東方三博士のひとりに扮して参加しました。


この伝統行事を模して、フィレンツェでは1997年からCavalcata dei Magi(東方三博士の行列)と呼ばれる豪華絢爛な衣装を身に纏った700人もの人が参加する仮装行列が開催されるようになりました。行列の衣装は、このフレスコ画に描かれている衣装を参考に再現しているそうです。


作品情報:

Cappella dei Magi, Benozzo Gozzoli, 1459, Palazzo Medici Riccardi, Firenze









1478年4月26日の「血の日曜日」に、大聖堂でのミサの最中、聖体を捧げる鐘を合図にパッツィ家を中心とする暗殺者がロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟を襲いました。しかし弟ジュリアーノは殺害したものの、ロレンツォには首に傷を負わせただけで、聖具室に逃げられてしまいました。計画では暗殺と同時に政庁舎を占拠して民衆に暴動を促すことになっていましたが、それにも失敗しました。


ジュリアーノ殺害の報を聞いた民衆の怒りは暗殺者たちに向けられ、その日のうちに捕らえられました。首謀者のフランチェスコ・デ・パッツィとピサ大司教は衣服をはがされ、首に縄をかけられて政庁舎の窓から吊されました。その後もロレンツォの報復はすさまじく、陰謀に加担したことを理由に処刑されたものは100人近くに上ったといわれます。パッツィ家の財産は没収され、家門は断絶されました。


こうして「パッツィ家の陰謀」は国内的には片づきましたが、陰の首謀者である教皇シクストゥス4世のメディチ家への憎悪をますます募らせることになりました。6月、彼はロレンツォとフィレンツェ政府を破門し、フィレンツェに宣戦を布告しました。フィレンツェは、教皇やナポリ王を相手に、2年近くにわたる戦いを強いられました。


窮地に追い込まれたロレンツォは、単身ナポリへ乗り込んでフェルディナンド1世と直接交渉する決心をしました。1479年12月に船でピサを出発した彼はおよそ2か月半ナポリに滞在し、時間と金がかかりましたが、辛抱強く交渉を続けました。そして、決してフィレンツェに有利なものではありませんでしたが、ついに停戦条約の締結にこぎ着けたのでした。


ロレンツォは祖父コジモが帰還したとき以上の熱狂で市民に迎えられました。彼はただちにバリーア(特別委員会)を設置し、市政府のメンバーを指名する機関として「七十人委員会」を設立しました。メディチ派で占められたこの委員会の任期は実質的に無期限で、こうして共和制フィレンツェにおけるメディチ家の支配体制はさらに強化されました。


その1年後、1480年には教皇庁とのあいだにも和平が成立しました(ロレンツォは次期教皇インノケンティウス8世とは友好的な関係を結び、次女をその息子と結婚させています)。各国が領土拡大の野心をもち、謀略渦巻くイタリアにおいて、五大国間の勢力が均衡を保ち、平和が維持されるように努めた彼の外交手腕は高く評価され、イタリアの「天秤の針」という名声を得ました。


ロレンツォ・イル・マニフィコ「il Manifico(豪華王/偉大王)」が君臨した時代のフィレンツェでは、ヴェロッキオ、ボッティチェッリ、レオナルドなど美術史上の巨匠たちが活躍し、若き日のミケランジェロもロレンツォが設立した「サン・マルコ庭園の彫刻学校」で学んでいました。また彼自身もメンバーだったプラトン・アカデミーを舞台にマルシリオ・フィチーノ、ピコ・デッラ・ミランドラなどの哲学者が研究に励んでいました。まさにルネサンスの最盛期であり、古代アテネ、ルイ14世時代のパリなどと並んで芸術文化の「黄金時代」とされています。


しかしこの黄金時代も長くは続きませんでした。ロレンツォには父ピエロと同じ痛風の持病がありましたが、病は年とともに重くなっていき、ついに1492年4月、家族や親しい友人たちに看取られながらカレッジの別荘で世を去ってしまいました。43歳の若さでした。遺体は弟ジュリアーノの眠るサン・ロレンツォ聖堂旧聖具室に埋葬されました(1559年にミケランジェロ設計の新聖具室に移され、聖母子像の下に重ねて置かれました)。


その2年前から、サン・マルコ修道院のドメニコ会修道士サヴォナローラが、メディチ家支配下におけるフィレンツェ人の堕落した生活を厳しく弾劾していました。ロレンツォは自分を糾弾するサヴォナローラに寛容で、彼がサン・マルコ修道院の院長になることを容認しました。サヴォナローラはロレンツォの臨終に立ち会い、最後の祝福を与えました。




コジモがフィレンツェに帰国した後、メディチ家の独裁時代が始まりましたが、法制的にも形式的にも、その前の時代と何も変わったところがありませんでした。帰国してから死ぬまでの約30年間にコジモが正義の旗手の地位に就いたのは断続して3期、計6ヶ月に過ぎません。生涯のほとんどを単なる一市民、一銀行家として過ごしたわけですが、彼の実質的な独裁権は30年間揺るぎませんでした。


コジモが政治家として実現した最大の業績は、国内外の平和でした。彼が権力を掌握して以来、内紛暴動は跡を絶ち、市民は平和に労働にいそしむことができました。しかし他国との戦争がなかったわけではなく、1440年には何度かの対ミラノ戦(後にレオナルドの壁画で有名になるアンギアーリの戦い)があり、この時はフィレンツェ軍が勝利して共和国の領土を増やしました。コジモは本来戦争を好まず、領土を増やすにしても、同年のサンセポルクロの場合のように、金で買収する手法を好んでいました。そして、金の力を巧みに利用しながらイタリア半島の平和を構築しました。1454年、ミラノ、ヴェネツィア間の「ローディの和」が成立し、翌年、それにナポリ、フィレンツェ、ローマを加えた五大国間の平和協定が成立しました。コジモがこの協定のために精力的に尽力したことは言うまでもありません。


メディチ財閥の事業も、コジモのもとに隆盛発展を続けました。1436年には絹織物業にも本格的に進出し、メディチ銀行の国外支店の数も増え続けました。サン・マルコ修道院図書館長に任じていた聖職者が出世して教皇ニコラウス5世となったので、教皇庁との関係はいっそう密接となり、ローマ支店の業績はますます良好となり、ヴェネツィアとブリュージュの支店がこれに次ぎました。1435年のジェノヴァを皮切りに、1441年ピサ、1446年ロンドンとアヴィニョンに相次いで支店を開業し、これらの支店網はそのままメディチ家の資金源であり情報網であり、銀行業務はそのまま貿易も兼ねました。1452年にはついにミラノにメディチ銀行支店が発足されましたが、これは、フィレンツェとミラノの長年の敵対関係に終止符が打たれたことを示していました。


コジモは学問の分野でも美術の分野でも、新しい潮流を積極的に擁護し、理解し、後援しました。そして、この莫大な富を背景に、パトロンとしてフィレンツェの芸術文化に多大な功績を残しています。


まず建築の分野では、メディチ家の菩提寺ともいうべきサン・ロレンツォ聖堂がフィリッポ・ブルネッレスキの設計で改築され、サン・マルコ修道院の再建工事もブルネッレスキの弟子ミケロッツォ・ミケロッツィの設計で行われました。またラルガ通りのメディチ・リッカルディ宮殿は彼の富と権力の象徴というべきもので、フィレンツェ最初のルネサンス様式の邸宅です。ブルネッレスキの設計案があまりにも豪華だったため、市民の嫉妬をかわないよう、ミケロッツォに改めて設計を依頼したという逸話が残っています。


古典の教養が深かったコジモは古典文献の蒐集に熱心でした。その800冊以上の蔵書を収めるためにサン・マルコ修道院内につくられた図書館はヨーロッパ最古の公共図書館です。


また古典学研究にも援助を惜しまず、1439年にフィレンツェで開催されたカトリック教会と東方正教会の合同公会議にコンスタンティノープルから著名なプラトン学者がやってきたのをきっかけに、私的サークル「プラトン・アカデミー」を創設しました。


1464年8月、コジモは75歳の生涯を終えました。遺体はサン・ロレンツォ聖堂に葬られ、全市民が哀悼し、共和国政府はその業績を称え、「祖国の父」という尊称を贈りました。


コジモの墓碑(アンドレア・デル・ヴェロッキオ作)は、サン・ロレンツォ聖堂の身廊と翼廊が交わる交差部、祭壇の真正面にあります。この場所は、通常、教会が捧げられた聖人の遺体や聖遺物を安置するための場所ですので、このような場所を占拠していること自体が、コジモの権力、そしてメディチ家とサン・ロレンツォ聖堂の深い繋がりを表しています。ただし、この墓碑は墓の目印に過ぎません。墓碑の真下には地下祭室(cripta クリプタ)の支柱があり、コジモの墓はその中にあります。







洗礼堂内には、ドナテッロとミケロッツォ・ディ・バルトロメオ(ミケロッツォ・ミケロッツィ)が手がけた対立教皇ヨハネス23世(在位1410〜1415)の墓廟があります。


対立教皇ヨハネス23世は、対立教皇のなかで最も物議を醸しだした人物の一人で、もとは海賊だったとも言われています。本名はバルダッサーレ・コッサです。


メディチ銀行を設立した銀行家ジョヴァンニ・ディ・ビッチは、コッサと親交があり、コッサが1402年に枢機卿になった時も、1410年にローマ教皇に選出された時にも、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが財政的な後押しをしたと言われています。メディチ銀行は教皇庁との取引で莫大な利益を上げ、教皇庁の財務管理を任されて15世紀末までこの立場を保ちました。


バルダッサーレ・コッサは1410年にローマ教皇ヨハネス23世に選出されたとはいえ、時代は「教会大分裂」の時代で、ローマとアヴィニョンとピサで3人のローマ教皇が対立していた混乱期でした。


この状況を打破しようと神聖ローマ皇帝ジギスムントがコンスタンツ公会議(1414〜1417)を招集します。メディチ家もヨハネス23世の銀行家として同行しましたが、そこで待ち構えていたのは大変な運命でした。会期中に、ヨハネス23世はそれまでの悪行の数々によって告発され、4年間投獄されてしまいます。


公会議はヨハネス23世とベネディクトゥス13世を強制的に廃位させ、もう一人のグレゴリウス12世には名誉職を与えて退位させると、新教皇マルティヌス5世(在位1417〜1431)を選出して、ようやく大分裂の時代は収束しました。


この事件はジョヴァンニ・ディ・ビッチにとって大痛手でしたが、それでも決して無冠となったヨハネス23世を見捨てず、巨額の保釈金を払ってフィレンツェに迎えました。1419年にヨハネス23世が亡くなると、彼の遺言を守って、ジョヴァンニ・ディ・ビッチが、立派な廟墓を洗礼堂内に建設させました。


<作品情報>

Tomba dell'antipapa Giovanni XXIII, Donatello e Michelozzo, 1426 circa, Marmo e bronzo, 732 cm, Battistero di San Giovanni, Firenze





1424年に北側扉が完成すると、ギベルティは引き続き残るもう一枚の扉制作を同じ毛織物業者組合(Arte di Calimala)から委嘱されました。ギベルティは、息子のトンマーゾやヴィットーリオの手を借りながら、その制作に25年以上をかけ、1452年に完成させました。


すべてにわたってアンドレア・ピサーノの先行作品に従わねばならなかった前作の時とは違い、形式も構成もギベルティの自由に任されていたことが、現存する請負契約書から知ることができます。ギベルティ自身の実績からくる信用とともに、画家や彫刻家の「芸術家」としての社会的ステータスが急激に向上したためではないかと推測されています。


こうして、第三の扉制作にあたって、ギベルティはゴシック風の四つ葉型の枠を捨てて四角形とし、各パネルの大きさも四倍に拡大しました。(当初は、他の2つの扉と同様に28枚のパネルで構成される計画であったことが、扉の裏側のデザインからわかります。)


「旧約聖書」の物語を主題とした合計10枚のパネルが、左上から始まって右下で終わるよう、アダムとエヴァの堕落、楽園追放後の人類の下降していく道程を追っています。10枚のパネルで「旧約聖書」のすべての物語を表現することは難しいため、「異時同図法」を使用して、異なる時間をひとつのパネルの中に描きこんでいます。例えば「アダムとエヴァ」のパネルには、「アダムの創造」「エヴァの創造」「原罪」「楽園追放」の場面が描かれています。


1. アダムとエヴァ

2. カインとアベル

3. ノア

4. アブラハム

5. イサク、エサウとヤコブ

6. ヨゼフ

7. モーセ

8. ヨシュア

9. ダヴィデ

10. ソロモンとシバの女王


透視図法によって処理された空間にリアルな絵画的世界が再現されているほか、周縁は豊かな工芸的装飾で包まれ、さらに燦然と輝く鍛金仕上げが全体に施されています。


完成当時も絶賛を博したこの第三扉は、アンドレア・ピサーノの第一扉を南側へ移して、大聖堂の正面と向かい合った東側に設置されました。


なお、それからしばらくしてからのことですが、この東側扉をミケランジェロが《天国の扉(門)》と絶賛してから、今もそのように呼ばれています。近代彫刻の傑作であるロダンの《地獄の門》が、これを意識して制作されたものであることは言うまでもありません。


現在、洗礼堂の《天国の扉》はコピーに代えられ、オリジナルは大聖堂付属博物館に展示されています。


作品情報:

Porta del Paradiso, Lorenzo Ghiberti, 1425-1452, Bronzo dorato, 599×462×245 cm, Battistero di San Giovanni, Firenze