1401年、当時のフィレンツェでは最有力の同業者組合であった毛織物商組合(Arte di Calimala)が主催して、北側扉(第二扉)の制作者を決定するコンクールを開催しました。
美術史上初めてともいえるこのコンクールには、名だたる彫刻家たち(フィリッポ・ブルネッレスキ、ロレンツォ・ギベルティ、ヤコポ・デッラ・クエルチャ、フランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノ、シモーネ・ダ・コッレ、ニッコロ・ダレッツォ、ニッコロ・ディ・ピエトロ・ランベルティなど)が参加し、その腕を競いました。
市民を代表する審査員は34名で、その中にはメディチ家のジョヴァンニ・デ・メディチ(通称ジョヴァンニ・ディ・ビッチ)も名を連ねていました。ジョヴァンニは、「祖国の父 ‘il Vecchio’」コジモ・デ・メディチの父にあたる人です。
課題作の大きさと枠の形状は既存の南側扉(第一扉)に合わせることとし、主題は『創世記』(22章)に記されている「イサクの犠牲」が選ばれました。アブラハムは年老いてから息子に恵まれ、これを神からの贈り物と見なしました。しかし、数年後、彼のもとに天使が訪れ、アブラハムの神への愛と信仰の証として、息子イサクを犠牲に捧げよと求められます。アブラハムは嫌々ながら犠牲の準備をし、息子を連れ、二人の従者とロバとともに山に登ります。しかし、彼が息子に刃をおろそうとした瞬間、天使が彼を止め、彼の信仰は報いられると安心させ、代わりに近くの藪で捕らえた子羊を犠牲にせよと語ります。この物語は、キリスト教徒によって重要だとみなされました。なぜなら、ひとり息子を犠牲にしようとする父親の話であり、同じように神は、子イエスを人間のために犠牲にされたからです。
参加作のうち、二作品が現存しています。現在は建築家としての方が有名なブルネッレスキのものと、最終的に残りの二つの扉の制作者として選ばれた彫刻家ギベルティのものです。
このコンクールでは、ふたつの異なる造形原理がぶつかりあうことになりました。つまり、後期ゴシックの伝統を継承しながらギベルティによって理想化された神話的な表現と、ブルネッレスキによって提示された人間の歴史の新しいダイナミックで劇的な表現のぶつかりあいです。この、ふたつの異なる芸術概念は、その後の美術の展開に大きな影響を与えていくこととなります。
委員会は、二人の作品に対して優劣を決めがたく、共同制作の申し出をしましたが、ブルネッレスキはそれを嫌い、自ら進んで優勝をギベルティに譲ったと伝えられています。いっしょに制作をするにしても、二人の表現様式は異なっていたので無理があったと思いますが。