2/04/2021

盛期ルネサンス Alto Rinascimento


ソデリーニ政権下のフィレンツェは、シャルル8世のあとフランス国王となったルイ12世が再びミラノとナポリに対する支配権を主張してイタリアに介入してくると、フランス側につきながら辛うじて中立を保持していました。


ローマでは、教皇アレクサンデル6世の後継者ピウス3世が在位期間わずか26日で亡くなったあと、1503年、ユリウス2世が教皇位に就きました。


ユリウス2世は芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらしましたが、伯父のシクストゥス4世以上に好戦的な教皇で、ペルージャとボローニャを武力で征服し、さらには、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国と同盟を結んでヴェネツィアを破りました。


1511年、ユリウス2世がヴェネツィア、スペイン統治下のナポリ、スイスと反フランス神聖同盟を結ぶと、フィレンツェは危機に立たされました。


フランスはユリウス2世を廃位に追い込むためにピサで公会議を開きましが、これに協力したソデリーニ政府は教皇領との対立を激化させました。ユリウス2世は、フィレンツェに聖務停止令を発する一方、親密な関係にあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチを支援して、メディチ家のフィレンツェ帰還を画策しました。


1512年4月、神聖同盟軍とフランス軍はラヴェンナ近郊で衝突しました。ヨーロッパ史上に残る激戦の末フランスが勝利を収め、同盟軍に同行していたジョヴァンニ・デ・メディチはフランスの捕虜となり、ミラノに護送されました。


この戦いで、フランス側も有能な総司令官ガストン・ド・フォアが戦死し、混乱に乗じて同盟側のスイスが大軍を進めたため、フランス軍はミラノを放棄して総退却してしまいました。ジョヴァンニは人質としてフランスへ連行される途中で脱走し、フィレンツェに向かうスペイン軍に弟ジュリアーノ(のちのヌムール公)とともに合流しました。


8月末、スペイン軍はフィレンツェ領下のプラートを攻略し、市内は2日にわたって略奪され、約2000人が殺害されました。その結果、ソデリーニは亡命を余儀なくされ、市政府はメディチ家の復帰と神聖同盟への参加を受け入れました。


1513年2月、ユリウス2世が死去すると、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世として教皇の位に就きました。


この時代、フィレンツェはかつてのような政治的な重要性は失っていました。しかし、文化的にはサヴォナローラ時代の厳しい禁欲主義から解放されて、いわゆる盛期ルネサンス芸術が花開きました。


反メディチの共和体制のシンボルとして創設された大評議会の議場(五百人広間)の建設は、14世紀以来の政庁舎の最大の増築事業としてすでにサヴォナローラ時代の1495年7月に着工され、急ピッチの工事の末、翌年4月には完成しました。


ソデリーニが終身国家主席に就任すると、政庁は大広間の側壁にフィレンツェ共和国の過去の軍事的勝利を称揚する大壁画を二大巨匠のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1440年の対ミラノ戦《アンギアーリの戦い》)とミケランジェロ(1364年の対ピサ戦《カッシーナの戦い》)に注文しました。2人は壮大な構想のもとに制作にとりかかりましたが、それぞれミラノとローマに招聘されたために未完に終わりました。


ミケランジェロが共和国の守護神としての《ダヴィデ》像を制作したのもこの時期でした。ミケランジェロは高さ4メートルの巨像'il Gigante'を1504年初めに完成し、ボッティチェッリやレオナルドも加わった設置場所検討委員会の審議をへて、5月に政庁前広場に面する政庁舎正面入口の前に設置されました。


また、レオナルド・ダ・ヴィンチが織物商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの夫人をモデルにしたといわれる不滅の名作《ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)》を描いたのもこの頃でした。


この2人と並んでルネサンス美術の三大巨匠といわれるラッファエッロも、1504年から数年間フィレンツェに滞在し、レオナルドやミケランジェロの影響を受けて才能を大きく開花させ、有力市民たちのために多くの聖母子画や肖像画を制作しました。


他にも、ピエロ・ディ・コジモやフラ・バルトロメオ、若きアンドレア・デル・サルトなどが活躍しました。


このように、ソデリーニ時代のフィレンツェは、サヴォナローラ時代の文化的不毛と抑圧の時代から一転して、新世紀の幕開けの数年間、再びイタリア芸術の最前線の舞台となりました。