1/30/2021

メディチ・リッカルディ宮殿 Palazzo Medici Riccardi


1444年、コジモ・デ・メディチは、ラルガ通り(現在のカヴール通り)とゴーリ通りの角に新しいメディチ宮殿を建設することにしました。


あれだけの権勢を誇ったメディチ家にしては地味な印象の邸宅ですが、そこには、共和制を建前としたフィレンツェで、アルビッツィ家の陰謀(1433年)を経て、他人から反感や嫉みを買うことがいかに危険なことであるかを思いしらされたコジモらしい配慮がありました。


最初、コジモは新居の設計をブルネッレスキに依頼しました。しかし、ブルネッレスキの新居設計案は目立ちすぎる派手なデザインだったという理由で、コジモは却下しました。結局コジモは、お抱え建築家とも言えるミケロッツォ・ミケロッツィに改めて設計を依頼しました。


工事は着実なペースで進められました。竣工の記録はありませんが、邸内の礼拝堂がベノッツォ・ゴッツォリの壁画で飾られる1459年頃には完成したものと思われます。


完成した邸宅はその後の邸館建築のモデルとなりました。それは、フィレンツェで最初のルネサンス様式の邸館建築であり、ブルネッレスキによって示された古典的な力強さと、アルベルティに見られる知的優雅さを兼ね備えた独創的なものでした。


外観は3層に区切られています。第1層は荒削りのままの石を積み上げた力強い粗石積み(ルスティカ, rustica)で、それが第2層から第3層へと、しだいに平板な仕上げの石積みになり、開口部の窓も繊細でリズミカルな二連アーチ窓となり、視線を上げるほどに軽快さが増します。建物の最上部の周縁には、古代建築風のコーニス(軒)をめぐらせて、外観全体を荘重な趣きで引き締めています。


当時は、2つの通りが交差する角には広いロッジャ(loggia, 開廊)が開かれ、市民に開放されていました。しかし、1517年には、それはミケランジェロ設計の窓によって塞がれました。


古典的で幾何学的な整然さがきわだつ中庭は、細身のコリント式円柱が支える連続アーチで囲まれた正方形プランの空間となっています。アーチの上のフリーズには黒地に白い花綱を浮き上がらせた装飾が施されています。それらの間にはメディチ家の紋章と交互に古代風の円形メダイヨンが配置されています。メディチ家紋章のデザインはそれぞれ異なり、円形メダイヨンのモチーフには、コジモ自身の古代コレクションであるカメオや彫刻のモティーフが利用されました。


かつてこの中庭には、15世紀の大彫刻家で、コジモのお気に入りのドナテッロの大傑作である、ブロンズ製の《ダヴィデ》が置かれていました。しかし、1494年の政変でメディチ家が追放されると、ヴェッキオ宮殿に移され、現在はバルジェッロ美術館に展示されています。


また、奥にある庭園の噴水には、ドナテッロの晩年の名作《ユディトとホロフェルネス》のブロンズ像が設置されていましたが、こちらも《ダヴィデ》と同じ運命を辿りました。現在はヴェッキオ宮殿内部に保存され、シニョリーア広場にはコピーが置かれています。


宮殿内部で、当時の雰囲気を今に伝えてくれるのは、2階にある礼拝堂です。この小さな礼拝堂は、祭壇のある面を除いて三方の壁面には、ベノッツォ・ゴッツォリの壁画、《ベツレヘムへ向かう三王の旅》がフレスコ画で絢爛と描かれています。そして、画中の三王をはじめとする人物には同時代のメディチ家の人々の肖像が写されています。


この壁画絵巻の傑作のほかにも、ピエロが注文したパオロ・ウッチェッロの傑作《サン・ロマーノの戦い》連作3点(現在はウッフィーツィ美術館、パリのルーヴル美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵)は宿敵シエナに対する1432年の記念すべき戦勝図として、その後もロレンツォ豪華王が手放さずに自分の寝室を飾らせていたと言われています。


このメディチ宮殿はトスカーナ大公フェルディナンド2世の時代、1659年に侯爵ガブリエーレ・リッカルディに売却されたため、現在はメディチ・リッカルディ宮殿と呼ばれています。なお、その時に建物は北側に7径間(窓7つ分)増築されました。そのため、邸宅の二連アーチ窓の上には、オリジナル部分にはメディチ家の紋章、増築された部分にはリッカルディ家の紋章が飾られています。