コジモがフィレンツェに帰国した後、メディチ家の独裁時代が始まりましたが、法制的にも形式的にも、その前の時代と何も変わったところがありませんでした。帰国してから死ぬまでの約30年間にコジモが正義の旗手の地位に就いたのは断続して3期、計6ヶ月に過ぎません。生涯のほとんどを単なる一市民、一銀行家として過ごしたわけですが、彼の実質的な独裁権は30年間揺るぎませんでした。
コジモが政治家として実現した最大の業績は、国内外の平和でした。彼が権力を掌握して以来、内紛暴動は跡を絶ち、市民は平和に労働にいそしむことができました。しかし他国との戦争がなかったわけではなく、1440年には何度かの対ミラノ戦(後にレオナルドの壁画で有名になるアンギアーリの戦い)があり、この時はフィレンツェ軍が勝利して共和国の領土を増やしました。コジモは本来戦争を好まず、領土を増やすにしても、同年のサンセポルクロの場合のように、金で買収する手法を好んでいました。そして、金の力を巧みに利用しながらイタリア半島の平和を構築しました。1454年、ミラノ、ヴェネツィア間の「ローディの和」が成立し、翌年、それにナポリ、フィレンツェ、ローマを加えた五大国間の平和協定が成立しました。コジモがこの協定のために精力的に尽力したことは言うまでもありません。
メディチ財閥の事業も、コジモのもとに隆盛発展を続けました。1436年には絹織物業にも本格的に進出し、メディチ銀行の国外支店の数も増え続けました。サン・マルコ修道院図書館長に任じていた聖職者が出世して教皇ニコラウス5世となったので、教皇庁との関係はいっそう密接となり、ローマ支店の業績はますます良好となり、ヴェネツィアとブリュージュの支店がこれに次ぎました。1435年のジェノヴァを皮切りに、1441年ピサ、1446年ロンドンとアヴィニョンに相次いで支店を開業し、これらの支店網はそのままメディチ家の資金源であり情報網であり、銀行業務はそのまま貿易も兼ねました。1452年にはついにミラノにメディチ銀行支店が発足されましたが、これは、フィレンツェとミラノの長年の敵対関係に終止符が打たれたことを示していました。
コジモは学問の分野でも美術の分野でも、新しい潮流を積極的に擁護し、理解し、後援しました。そして、この莫大な富を背景に、パトロンとしてフィレンツェの芸術文化に多大な功績を残しています。
まず建築の分野では、メディチ家の菩提寺ともいうべきサン・ロレンツォ聖堂がフィリッポ・ブルネッレスキの設計で改築され、サン・マルコ修道院の再建工事もブルネッレスキの弟子ミケロッツォ・ミケロッツィの設計で行われました。またラルガ通りのメディチ・リッカルディ宮殿は彼の富と権力の象徴というべきもので、フィレンツェ最初のルネサンス様式の邸宅です。ブルネッレスキの設計案があまりにも豪華だったため、市民の嫉妬をかわないよう、ミケロッツォに改めて設計を依頼したという逸話が残っています。
古典の教養が深かったコジモは古典文献の蒐集に熱心でした。その800冊以上の蔵書を収めるためにサン・マルコ修道院内につくられた図書館はヨーロッパ最古の公共図書館です。
また古典学研究にも援助を惜しまず、1439年にフィレンツェで開催されたカトリック教会と東方正教会の合同公会議にコンスタンティノープルから著名なプラトン学者がやってきたのをきっかけに、私的サークル「プラトン・アカデミー」を創設しました。
1464年8月、コジモは75歳の生涯を終えました。遺体はサン・ロレンツォ聖堂に葬られ、全市民が哀悼し、共和国政府はその業績を称え、「祖国の父」という尊称を贈りました。
コジモの墓碑(アンドレア・デル・ヴェロッキオ作)は、サン・ロレンツォ聖堂の身廊と翼廊が交わる交差部、祭壇の真正面にあります。この場所は、通常、教会が捧げられた聖人の遺体や聖遺物を安置するための場所ですので、このような場所を占拠していること自体が、コジモの権力、そしてメディチ家とサン・ロレンツォ聖堂の深い繋がりを表しています。ただし、この墓碑は墓の目印に過ぎません。墓碑の真下には地下祭室(cripta クリプタ)の支柱があり、コジモの墓はその中にあります。