11/24/2020

ストロッツィ宮殿 Palazzo Strozzi


ストロッツィ宮殿は、その他の宮殿よりも遅れて着工されているだけに、建築様式としての完成度は高く、ルネサンス様式の宮殿建築の頂点といわれています。(イタリア語のPalazzo(パラッツォ)という言葉は通常「宮殿」と訳されますが、それは大きな公共建造物や個人の邸宅のことで王宮ではありません。)


他の建物に接続しない独立した邸宅として設計されているところに、まず、ルチェッライ宮殿やメディチ・リッカルディ宮殿とは違ったコンセプトが導入されていることがわかります。


大銀行家であったフィリッポ・ストロッツィは、メディチ・リッカルディ宮殿をしのぐ大邸宅を望み、邸宅を建設するための十分なスペースを確保するために、この区画に以前建っていた他の多くの建物が取り壊されました。


1489年頃、ジュリアーノ・ダ・サンガッロ設計により、木造の宮殿模型(バルジェッロ美術館所蔵)が作られましたが、ジョルジョ・ヴァザーリは、初期設計を、ロレンツォ「豪華王」のお気に入りの芸術家ベネデット・ダ・マイアーノに帰しました。


建設は1489年に開始されますが、わずか2年後の1491年にフィリッポは亡くなります。


建物が2階(日本の3階)に差し掛かった頃にベネデット・ダ・マイアーノは亡くなり、シモーネ・デル・ポッライオーロ(通称クロナカ)が引継ぎます。その後、数回の建設中断を経た後、1538年にバッチョ・ダニョーロの手によって完成しました。


当時としては思い切って突き出させたコーニス(軒)は、スケールの大きな建物に落ち着きを与え、連続する双子窓が粗石積みの重厚な壁面に軽快さを生んでいます。


外壁に使用されている石は、ピエトラ・フォルテ(petra forte)という、フィレンツェ市街の基調色をなす、地元産の、灰色がかった黄褐色の砂岩です。かつては城壁の内側、つまり町の真下から採掘されていました。ピエトラ(pietra)が「石」、フォルテ(forte)が「強い」、すなわち「強い石」の名のとおり耐久性にすぐれ、少なからぬ教会建築とヴェキオ宮殿をはじめとする公私の邸館では、このピエトラ・フォルテの大きな切り石を壁体としています。じつに荒々しく、力強い印象を受けます。


ところが建物の内部に入ると、がらりと雰囲気が変わります。青みがかった明るい灰色の石が、聖堂内部や邸宅の中庭の柱やアーチ、コーニス(アーチ上の水平材)、窓枠を構成し、明快に分割された空間が現れます。この石は、ピエトラ・セレーナ(pietra serena)という名前で、「晴れやかな石」という意味です。これも砂岩の一種で、やや脆弱なため、外壁には適しませんが、フィレンツェに多いロッジャと呼ばれる開廊の円柱はたいていこの石なので、町を歩いていればよく目に入ります。


ここの一部は国立ルネサンス研究所などが占めていますが、大半のスペースは展覧会場として利用されていますので、邸宅内の見学をかねて特別展を鑑賞することができます。