1/26/2021

ジローラモ・サヴォナローラ Girolamo Savonarola


メディチ亡命直後の1494年12月、市民総会が招集され、メディチ体制下で設置されたすべての政府機関(百人評議会、七十人評議会、八人外務委員会、十二人内務委員会)が廃止されました。そして、新たに大評議会と八十人評議会が設置され、フィレンツェは1434年以前の共和国制に戻りました。


とはいっても、フィレンツェの政治の実権を握ったのはジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola, 1452-1498)でした。サヴォナローラは、共和制時代の最初の4年間に、フィレンツェの政治に絶大な影響力をふるい、フィレンツェ市民をかつてない宗教的な興奮に包みました。


サヴォナローラは、フェッラーラ出身の激しい禁欲的苦行を積んだドメニコ会の修道士で、1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に呼ばれました。一時はフィレンツェを追われましたが、ロレンツォ・イル・マニーフィコの友人であるピコ・デッラ・ミランドラのとりなしにより、ロレンツォの死の2年前、1490年に再びフィレンツェに帰還しました。


サヴォナローラは、堕落した教会とフィレンツェ社会に「神の剣」が下されると預言し、実際にフランス軍の侵略とメディチ体制の崩壊という形で的中させると、民衆の心を完全にとらえたのでした。


清教徒的な厳格主義に基づくサヴォナローラは、メディチ時代の退廃した風俗文化を浄化しなければならないとし、市民に贅沢、華美、賭博、遊興、売春、男色、異教的芸術などのあらゆる悪徳を放棄するように求めました。


そして、1497年の謝肉祭と翌98年の四句節には、「虚栄の焼却(Falò delle vanità)」がシニョリーア広場で行なわれ、豪華な衣裳や装身具、俗悪な書物、官能的な絵画などが山のように積み上げられて焼却されました。これによって、フィレンツェ・ルネサンスの芸術と文化に与えたダメージは計り知れません。


ロレンツォ・イル・マニーフィコ時代の華麗な異教的文化の担い手だった詩人や新プラトン主義者、画家たちも次々にサヴォナローラに帰依し、劇的な回心を経験しました。なかでもサンドロ・ボッティチェッリの回心は痛ましいまでに劇的で、ロレンツォ時代の艶麗優美な様式と異教画題を放棄し、サヴォナローラ的敬虔主義に満ちた宗教画を制作するようになりました。


サヴォナローラはフィレンツェ人の堕落した享楽生活とメディチ家の専制支配を批判しただけではなく、ローマ教皇アレクサンデル6世の堕落した生活ぶりも激しく避難しました。世俗化した教皇の代表的存在であった教皇アレクサンデル6世は憤激し、サヴォナローラのみならずフィレンツェに対して破門状を突きつけました。


シャルル8世のイタリアからの撤退によりサヴォナローラは強力な後ろ盾を失い、そこに教皇庁との対立による経済危機、飢饉やペストの発生などの要因が加わったため、サヴォナローラの人気失墜と孤立化に拍車をかけました。


1498年4月7日、敵対するフランチェスコ修道会からの挑戦を受けた「火の試練」(火の中を歩いて渡り、無事である方が正しいとされる)において、実施方法をめぐる意見の相違から当日になってとりやめるという失態を犯しました。そして、「神を試みてはいけない」と最後まで反対していたサヴォナローラの姿に、人々はにわかに不審の念を抱くようになりました。


カリスマ性を失ったサヴォナローラは、翌4月8日に拘束され、激しい拷問を受けました。そして5月23日、シニョリーア広場で絞首刑の後、さらに火刑に処され、その灰はことごとくアルノ川に流されました。こうして短いサヴォナローラ時代は幕を閉じました。シニョリーア広場のネプチューンの噴水の前には、サヴォナローラが処刑された場所を示す銘板があります。


その後フィレンツェでは党派間の対立が続きましたが、1502年に妥協が成立し、ヴェネツィア共和国の統領(ドージェ doge)に倣った終身国家主席( 「終身の正義の旗手」)を元首とする共和制が誕生しました。長官に就任した名門出身のピエ口・ソデリーニ(Piero Soderini, 1450-1522)は決断力に欠ける人物で、政策の立案と実行には側近のニッコロ・マキアヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469-1527)が重要な役割を果たしました。シャルル8世軍侵攻やピサ攻略戦の失敗に学んだマキアヴェッリの構想によって、1506年には市民軍が編成され、傭兵に依存した従来の戦争方式の転換がはかられました。1509年には、1494年以来続いたピサ再攻略戦がようやく成功裡に終結しました。