メディチ家礼拝堂は、位置としてはサン・ロレンツォ聖堂の主祭壇の後ろ側にあたりますが、博物館として独立した入口をもっているため、教会堂内からではなく、いったん外へ出て、チケットを買って入り直す必要があります。
メディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂の堂内には、あちこちにメディチ家の墓が設けられていますが、大切な礼拝堂は「新聖具室(Sagrestia Nuova)」と「君主の礼拝堂(Cappella dei Principi)」の2ヵ所です。
「新聖具室」は、礼拝堂にて転用すべくミケランジェロが設計し直した詩的な芸術空間で、教会の右翼廊にあります。もう一つの「君主の礼拝堂」は、メディチ家のトスカーナ大公たちが眠る贅を尽くした大空間で、教会の後陣部分に建設されました。
1520年、ミケランジェロはメディチ家出身のローマ教皇レオ10世の依頼を受けて「新聖具室」を設計し、彫刻と建築を見事に調和させることに成功しました。教皇レオ10世が死去すると計画は一旦中断しますが、教皇クレメンス7世によって再開されます。
ロレンツォ豪華王と、パッツィ家の陰謀で刺殺された弟のジュリアーノは、祭壇と向かい合う南側に設置された『聖母子』像の下に埋葬されています。なお、簡単な墓誌だけで、2人を記念するような肖像彫刻などは実現しませんでした。
東西の壁面に向かい合って設置された2つの墓廟は、東側がヌムール公ジュリアーノ(レオ10世の弟)、西側がウルビーノ公口レンツォ(レオ10世の甥)の墓です。
ただし、ミケランジェロは実際の2人に似せて肖像を彫ろうとはしませんでした。当時の人々がそのことを指摘すると、「十世紀も後になれば、そんなことを誰も問題にしなくなるだろう」と言ったそうです。
ヌムール公ジュリアーノには『行動』、ウルビーノ公ロレンツォには『思索』という対をなす主題が与えられています。そして、それぞれの像の下には、さらに1日を示す4体の擬人像が対をなして配置されています。ジュリアーノの肖像の下には『夜』の女性像と『昼』の男性像、ロレンツォの下には『夕暮』の男性像と『曙 』の女性像です。
この空間では、ミケランジェロの造形原理であるコントラポスト(対位法)が明快に貫かれ、ダイナミックなリズムと緊張が構造的に調和しています。
メディチ家の墓廟は、時代とともに拡大されてゆきました。ブルネッレスキによる5世紀の旧聖具室、ミケランジェロによる16世紀の新聖具室、さらに17世紀には第3代トスカーナ大公となったフェルディナンド1世の時代に「君主の礼拝堂」が着工されました。
コジモ1世の庶子であるドン・ジョヴァンニ・デ・メディチの設計に従って、1604年に建築家ベルナルド・ブオンタレンティが建設を開始しますが、ほぼ現在のような形になるまでには1世紀以上の歳月を要しました。
世界中から集められた色とりどりの美しい大理石や半貴石によって、壁面は重厚かつ華麗に仕上げられています。そして、周囲にはコジモ1世以後のメディチ家出身のトスカーナ大公たちの墓廟が並んでいます。