サン・ロレンツォ教会の正面ファサードに隣接した左側の扉をくぐると、美しい二階建ての連続アーチに囲まれた中庭に出ます。中庭の列柱回廊を左に折れたところから回廊の2階に上ると、貴重かつ豊富な蔵書で知られる、ミケランジェロが設計したメディチ家の図書館、ラウレンツィアーナ図書館があります。
ラウレンツィアーノ(Laurenziano/a)とはイタリア語で「ロレンツォ(Lorenzo)の」という形容詞なので、「豪華王 il Magnifico」と讃えられたメディチ家のロレンツォが建設した図書館のように思う人もいるかもしれませんが、この名はサン・ロレンツォ聖堂の一部として建設されていることに由来します。
メディチ家の「祖国の父」コジモが開始し、孫のロレンツォ「豪華王」によって大きく充実した蔵書コレクションは、しばらくは数奇な運命を辿ることになります。ロレンツォ豪華王の死後まもなく、メディチ家がフィレンツェから追放されると、メディチ家の蔵書はすべて没収されサン・マルコ修道院に持ち去られてしまいます。しかし、ロレンツォ豪華王の次男がローマ教皇レオ10世として即位すると、蔵書は再びメディチ家の手に戻され、その大部分がローマに送られました。
続いてローマ教皇の座についたメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、1523年に、今度は蔵書をローマから祖国フィレンツェに送り返し、ミケランジェロに命じて図書館の建設を計画しました。
実際には、神聖ローマ皇帝カール5世が率いる傭兵軍がローマに進駐してきた1527年の「ローマ劫掠(Sacco di Roma)」では、クレメンス7世自身がサンタンジェロ城に閉じ込められてしまったので、図書館の工事も一時中断され、1530年以降に再開されています。
それでも、ミケランジェロ自らがフィレンツェで図書館建設にあたることはありませんでした。ミケランジェロが玄関間の粘土模型を送ったのは、ようやく1559年になってからのことです。ローマに滞在していたミケランジェロの指示を受けながら、メディチ家の宮廷芸術家としてコジモ1世(後のトスカーナ大公)のもとで活躍したジョルジョ・ヴァザーリとバルトロメオ・アンマンナーティが建設を担当しました。そして、最終的な完成はミケランジェロの死後に持ち越されます。
主要部分は玄関間と閲覧室ですが、ここはマニエリスム建築とバロック建築の出発点になったといわれるほど、空間に対する新しい解釈が感じられます。
意外なほど小さな図書館の入口に足を踏み入れると、そこは少なくともフィレンツェでは見たこともない奇妙な空気が充満した玄関間です。それは明快な比例関係に基づいた古典的ルネサンス様式でもなければ、ダイナミックに躍動するバロック空間でもありません。
狭く閉鎖的な玄関間は、形だけの窓やなにも支持しない持送り,壁面をえぐって埋め込まれた双円柱など、伝統的な様式からは大きく隔たっています。
ゆるやかに流れ落ちる滝の水からインスピレーションを受けたという階段はあたかも彫刻作品のようです。三部に分かれている階段は、上部ではひとつに集まるため機能的な意味はありません。劇場の舞台を思わせるような構成と、楕円を利用したデザインは、直線と正円とを基本的な構成要素とするルネサンス建築から逸脱しています。
15段の階段を上り詰めると、奥に深く伸びた閲覧室があります。玄関間の垂直性と閲覧室の水平性は、水の流れを遡行し、滝のカーテンの裏側に回り込んだような錯覚を与えます。
閲覧室では、床面や天井の装飾をはじめ、書見机のデザインまで、すべてがミケランジェロの指示に忠実にしたがって制作されています。書見台には蔵書の一部である貴重な古写本がずらりと展示されています。