サン・ロレンツォ聖堂は、聖ラウレンティウス(イタリア語名はロレンツォ Lorenzo)に捧げられた、フィレンツェで最も古い教会のひとつです。
393年にミラノ司教聖アンブロシウス(イタリア語名はアンブロージョ Ambrogio)によって献堂され、その後、フィレンツェ司教聖ザノービの遺骸がサンタ・レパラータ教会に移管されるまでの300年間にわたって、フィレンツェ最初のドゥオーモ(duomo 司教座教会)として利用されました。
ブルゴーニュのジェラール司教がニコラウス2世の名で教皇となった際には、教会の拡張工事が行われ、1059年に再度献堂されました。この際、司教座聖堂参事会集会所とともに教会の脇に回廊が建設されました。
15世紀初めには司教座聖堂参事会員は聖堂のさらなる拡張を決定し、1421年8月10日、拡張工事の開始を祝福するための式典が執り行われました。この拡張工事に財政的支援を行なった出資者のなかに、この地域に住んでいた極めて裕福な銀行家ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチがいました。
メディチ家の依頼を受けて、教会改築の設計を任されたのが、「ドゥオーモのクーポラ」を手がけた(そして旧聖具室を設計した)フィリッポ・ブルネッレスキでした。しかし、教会が完成したのはブルネッレスキの死後である1461年で、ブルネッレスキの死後は、ミケロッツォ・ミケロッツィらに工事は引き継がれました。
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しかし、教会のファサードは未完成のレンガ積みのまま残されていました。1516年にメディチ家出身の教皇レオ10世がミケランジェロに設計を委ねましたが、ミケランジェロは木製の模型を作るものの、技術的、財政的問題のため、完成するには至りませんでした。
こうした歴史からだけでなく、教会の前がメディチ家のリッカルディ宮殿であることからも、また教会の背後にメディチ家礼拝堂が隣接していることからも、ここがメディチ家の菩提寺であることがわかります。
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ルネサンス様式の堂内は、古典的な半円アーチと円柱によってリズミカルな水平方向への運動を強調しているために、尖塔型アーチを用いて垂直方向を強調したゴシック様式とは対照的な印象があります。天井も床面と水平な格縁になっていて、堂内に入った者の視線は自然に前方の主祭壇に向けられます。堂内全体の建築には、ピエトラ・セレーナ(pietra serena)という青みがかった明るい灰色の石がふんだんに使われています。
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堂内中央の左側廊と右側廊に一対の箱形をしたブロンズ製の説教壇《復活の説教壇》(右側廊)と《受難の説教壇》(左側廊)があります。ドナテッロの最晩年の作で、スキアッチャートと呼ばれる浅浮き彫りの表現にぜひ注目してください。写真は《受難の説教壇》です。
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また、主祭壇の手前の床に、大きなメディチ家の紋章(ヴェッロッキオ作、1467)と「祖国の父コジモ」の墓を示す円形パネルが嵌めこまれています。
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左手奥にある旧聖具室(Sacrestia Vecchia 1419- 1428)はブルネッレスキの設計ですが、実際には教会ができ上る前に完成していますから、フィレンツェに登場した最初のルネサンス空間だったといえるでしょう。空間は明快で、正方形プランの4辺に各辺を直径とするアーチを架け、その上に半球形の円蓋をのせ、四隅を三角形のペンデンティヴで支えています。装飾は極力抑えられていますが、2枚のブロンズ扉とメダイヨン(円形装飾)はドナテッロが担当しています。
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聖具室を入ってすぐ左手にあるモニュメントは祖国の父コジモの息子であったピエロとジョヴァンニの墓廟に捧げられた、アンドレア・デル・ヴェッロッキオの傑作(1472)です。制作にはヴェッロッキオのエ房にいたレオナルド・ダ・ヴィンチも参加しており、ウッフィーツィ美術館所蔵の『受胎告知』の中に、マリアの書見台として描いています。