ガッラ・プラチディア霊廟は、イタリアのラヴェンナにあるローマ帝国末期(5世紀)に建設されました。ガッラ・プラチディアの埋葬所と伝えられており、3つの石棺が安置されてはいますが、最初から埋葬所として建設されたかは不明です。
サン・ヴィターレ聖堂に隣接する小さな石造りの建物がガッラ・プラチディア霊廟ですが、ちょっと見たところ倉庫かと思うほど質素な建物なので、美術や歴史に関心のない旅行者ならそのまま通り過ぎてしまうかもしれません。
昼でも薄暗い建物の内部には、質素な造りの石棺が置いてあります。いくつかの小さな窓がありますが、そこにガラスではなくアラバスターの薄板がはまっていて、外光はそれを通して入ってくるだけです。その柔らかい光に目が慣れた時、壁と天井をびっしりと埋めるすばらしいモザイクに気付いて、思わずため息を洩らすでしょう。その色彩は、サン・ヴィターレ聖堂のモザイクほど華麗ではありませんが、それだけにいっそう高貴で、深い精神性を感じさせます。
アエリア・ガッラ・プラチディア(Aelia Galla Placidia, 390年頃 - 450年11月27日)は、ローマ皇帝テオドシウス1世の娘として生まれた。410年ローマ市に侵入した西ゴートに連れ去られ、414年アタウルフ王と結婚。同王の死(415年)後、ローマ側に返還され(416年)、翌年異母兄ホノリウス帝の命で将軍コンスタンティウスに嫁いだ。421年兄を説いて夫を共治帝とさせたが、同年夫は病死。その後兄帝と不和になり、423年2子を伴ってコンスタンティノープルに逃れた。ホノリウス帝死後、425年東ローマ皇帝の援助で息子ウァレンティニアヌス(3世)が西ローマ皇帝位につくと、幼帝の母として帝国西部の実質的な統治者となるが、やがて将軍アエティウスに実権を奪われた。息子の成人後は、息子への強い影響力は保持しつつも、ラベンナでの教会建立など信仰活動に専心し、450年ローマで死去した。
彼女の遺体は1000年以上もの間誰の手にも触れずに、帝衣をまとった姿を棺の小さな穴から見ることができたようです。1557年のある日、不注意な観覧者がもっとよく見ようと、蝋燭の火をその穴に近づけたところ、屍衣に火がつき、あっというまに遺体は灰となってしまった、という話の真偽は確かではありませんが、石棺には現在何も入っていません。
写真は、建物中央の天井部分です。星がちりばめられた濃紺の天空の中心には黄金の十字架が輝き、その四方には4人の福音書記者を表すセラフィムが画かれています。