Let's go to Italy!


コジモ・デ・メディチの尽力によって、1439年の東西教会公会議は、フィレンツェで開催されました。感動的な公会議の歴史的舞台にフィレンツェが躍り上がった時の記憶を、そして、その晴れ舞台を誘致したメディチ家の存在を、コジモの息子ピエロは、壁画に描きとどめたいと思いました。


ピエロは、ミケロッツォ・ミケロッツィの設計で建てられたメディチ宮殿が完成するかしない1459年、宮殿内に設けられた2階の家族礼拝堂をフレスコ画で飾る仕事を、ベノッツォ・ゴッツォリに依頼しました。


私的な宗教空間であり政治的な会合の場所でもあった礼拝堂に、ゴッツォリは《三王の旅(東方三博士の旅)》を描きました。壁画制作は1462年までかかりましたが、コジモはそれを見て世を去りました。


ゴッツォリはフラ・アンジェリコの弟子ですが、華麗でモニュメンタルな風俗絵巻を描かせたら師匠の上で、マザッチョの出現で価値が失われつつあった後期国際ゴシック様式の宮廷絵画風の味つけが蘇りました。


この礼拝堂では祭壇のある北側以外は、すべての壁面が一続きの場面として表されています。入って右側の壁面の、城壁で囲まれたトスカーナの小都市のような外観をもつエルサレムから始まって左に向かって進み、最後は方形の祭室の壁で終わります。


そこに置かれた祭壇画《キリストの降誕》(ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノ作。フィリッポ・リッピの原作は現在ベルリン国立美術館所蔵)では、バラの垣根で囲まれた庭の中で、ベツレヘムで生まれた幼児イエスを天使たちが崇める様子が表されています。


一説では、三王のうち年長の2人の王メルキオール(西側、老人の姿)とバルタザール(南側、壮年の姿)の一段と豪奢でエキゾティックなイメージには、1439年の東西教会公会議に参加したコンスタンティノープル総主教とビザンティン皇帝ヨハネス・パレオロゴス8世の姿が、若い王カスパール(東側、青年の姿)にはピエロの長男口レンツォ・イル・マニーフィコの姿が描き出されているとされますが、これには異論も多くあります。


いちばん若い王につき従う一行のなかにはさまざまな肖像が見られ、そのなかにはメディチ家の代表的な人物がいます。コジモは美しく飾られた茶色の驢馬にまたがり、その右隣には、絵の発注者であるピエロが赤い頭巾をかぶって白馬にまたがっています。


群像中にはゴッツォリの自画像が見られ、赤い帽子には「OPUS BENOTII(ベノッツォの作)」と記されています。


この主題は、フィレンツェでもっとも盛大な宗教祝祭のひとつで、1月6日に祝われるキリスト教の祝日「公現祭(Epifania エピファニーア)」に関連しています。メディチ家はこの祝祭の主催者である「東方三博士同信会」の幹部でもあり、コジモ自身、1446年の仮装行列には東方三博士のひとりに扮して参加しました。


この伝統行事を模して、フィレンツェでは1997年からCavalcata dei Magi(東方三博士の行列)と呼ばれる豪華絢爛な衣装を身に纏った700人もの人が参加する仮装行列が開催されるようになりました。行列の衣装は、このフレスコ画に描かれている衣装を参考に再現しているそうです。


作品情報:

Cappella dei Magi, Benozzo Gozzoli, 1459, Palazzo Medici Riccardi, Firenze









1444年、コジモ・デ・メディチは、ラルガ通り(現在のカヴール通り)とゴーリ通りの角に新しいメディチ宮殿を建設することにしました。


あれだけの権勢を誇ったメディチ家にしては地味な印象の邸宅ですが、そこには、共和制を建前としたフィレンツェで、アルビッツィ家の陰謀(1433年)を経て、他人から反感や嫉みを買うことがいかに危険なことであるかを思いしらされたコジモらしい配慮がありました。


最初、コジモは新居の設計をブルネッレスキに依頼しました。しかし、ブルネッレスキの新居設計案は目立ちすぎる派手なデザインだったという理由で、コジモは却下しました。結局コジモは、お抱え建築家とも言えるミケロッツォ・ミケロッツィに改めて設計を依頼しました。


工事は着実なペースで進められました。竣工の記録はありませんが、邸内の礼拝堂がベノッツォ・ゴッツォリの壁画で飾られる1459年頃には完成したものと思われます。


完成した邸宅はその後の邸館建築のモデルとなりました。それは、フィレンツェで最初のルネサンス様式の邸館建築であり、ブルネッレスキによって示された古典的な力強さと、アルベルティに見られる知的優雅さを兼ね備えた独創的なものでした。


外観は3層に区切られています。第1層は荒削りのままの石を積み上げた力強い粗石積み(ルスティカ, rustica)で、それが第2層から第3層へと、しだいに平板な仕上げの石積みになり、開口部の窓も繊細でリズミカルな二連アーチ窓となり、視線を上げるほどに軽快さが増します。建物の最上部の周縁には、古代建築風のコーニス(軒)をめぐらせて、外観全体を荘重な趣きで引き締めています。


当時は、2つの通りが交差する角には広いロッジャ(loggia, 開廊)が開かれ、市民に開放されていました。しかし、1517年には、それはミケランジェロ設計の窓によって塞がれました。


古典的で幾何学的な整然さがきわだつ中庭は、細身のコリント式円柱が支える連続アーチで囲まれた正方形プランの空間となっています。アーチの上のフリーズには黒地に白い花綱を浮き上がらせた装飾が施されています。それらの間にはメディチ家の紋章と交互に古代風の円形メダイヨンが配置されています。メディチ家紋章のデザインはそれぞれ異なり、円形メダイヨンのモチーフには、コジモ自身の古代コレクションであるカメオや彫刻のモティーフが利用されました。


かつてこの中庭には、15世紀の大彫刻家で、コジモのお気に入りのドナテッロの大傑作である、ブロンズ製の《ダヴィデ》が置かれていました。しかし、1494年の政変でメディチ家が追放されると、ヴェッキオ宮殿に移され、現在はバルジェッロ美術館に展示されています。


また、奥にある庭園の噴水には、ドナテッロの晩年の名作《ユディトとホロフェルネス》のブロンズ像が設置されていましたが、こちらも《ダヴィデ》と同じ運命を辿りました。現在はヴェッキオ宮殿内部に保存され、シニョリーア広場にはコピーが置かれています。


宮殿内部で、当時の雰囲気を今に伝えてくれるのは、2階にある礼拝堂です。この小さな礼拝堂は、祭壇のある面を除いて三方の壁面には、ベノッツォ・ゴッツォリの壁画、《ベツレヘムへ向かう三王の旅》がフレスコ画で絢爛と描かれています。そして、画中の三王をはじめとする人物には同時代のメディチ家の人々の肖像が写されています。


この壁画絵巻の傑作のほかにも、ピエロが注文したパオロ・ウッチェッロの傑作《サン・ロマーノの戦い》連作3点(現在はウッフィーツィ美術館、パリのルーヴル美術館、ロンドンのナショナル・ギャラリー所蔵)は宿敵シエナに対する1432年の記念すべき戦勝図として、その後もロレンツォ豪華王が手放さずに自分の寝室を飾らせていたと言われています。


このメディチ宮殿はトスカーナ大公フェルディナンド2世の時代、1659年に侯爵ガブリエーレ・リッカルディに売却されたため、現在はメディチ・リッカルディ宮殿と呼ばれています。なお、その時に建物は北側に7径間(窓7つ分)増築されました。そのため、邸宅の二連アーチ窓の上には、オリジナル部分にはメディチ家の紋章、増築された部分にはリッカルディ家の紋章が飾られています。











宗教権力の拠点であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂とサン・ジョヴァンニ洗礼堂、そして政治権力の拠点であるヴェッキオ宮殿の広場のちょうど真ん中に位置する、一風変わった外観をもつ建物がオルサンミケーレ教会です。


この箱型の建物は、教会堂のようには見えず、ピエトラ・フォルテ(petra forte, 黄褐色砂岩)で建てられた頑丈な要塞のように見えます。


この教会の名前は、750年に建設されたサン・ミケーレ礼拝堂(Oratorio di S. Michele Arcangelo, San Michele in Orto)に由来します。しかし、1240年には礼拝堂は取り壊されて穀物市場が建設されました。ところが、それから半世紀後の1304年、火災で市場は焼け落ちてしまいました。


1337年から、建築家のフランチェスコ・タレンティやネーリ・ディ・フィオラヴァンテの設計に基づいて再建されたものの、14世紀末には市場は他の場所に移転し、建物は礼拝堂として復活することになりました。1404年には、新たに2階と3階が増築され、非常時(飢饉)用の穀物倉庫として使用されることになりました。


そして、この多目的な教会を同業者組合(アルテ, Arte)がそれぞれの守護聖人像で飾ろうとしました。当時の政府は同業者組合の代表者によって構成されていましたので、組合は現在の政党に近いものと考えたほうがいいかもしれません。


組合には7つの大組合と14の小組合の合計21の組合がありました。大組合に所属するのは、フィレンツェの主要産業であるラシャ業(Calimala)、毛織物業(Lana)、絹織物業(Seta)のほか、両替商(Cambio)、医師・薬種商(Medici e Speziali)、毛皮商(Vaiai e Pellicciai)、裁判官・公証人(Giudici e Notai)の各組合です。そして、小組合には、肉屋、錠前屋、靴屋、武器・甲冑、大工・石工、鍛冶屋、材木商、宿屋、酒(ワイン)屋、油屋、パン屋などが属していました。


裁判官・公証人組合は聖ルーカ、両替商組合は聖マタイ、武器・甲冑組合は聖ゲオルギウスといったように、組合ごとに守護聖人が決まっていました。それは第一線の彫刻家たちの手で制作され、教会の周囲の計14の壁龕に設置されました。


カルツァイウォーリ通り(Via dei Calzaiouli)右端から時計回りに

𝟏. 裁判官・公証人(Giudici e Notai)

《聖ルーカ》ジャンボローニャ(ブロンズ)

𝟐. 商業裁判所(Tribunale della Mercanzia)

《聖トマスの不信》アンドレア・ヴェッロッキオ(ブロンズ)

▼当初はグエルフィ(教皇党)が所有し、ドナテッロのブロンズ像《トゥールーズの聖ルイ》が収められていましたが(現在、サンタ・クローチェ聖堂付属美術館所蔵)、その後、壁龕は商業裁判所に売却され、像も変えられました。

𝟑. ラシャ業(Calimala)

《洗礼者ヨハネ》ロレンツォ・ギベルティ(ブロンズ)

𝟒. 絹織物業(Seta)

《福音書記者ヨハネ》バッチョ・ダ・モンテルーポ(ブロンズ)

𝟓. 医師・薬種商(Medici e Speziali)

《バラの聖母》ピエロ・ディ・ジョアンニ・テデスコ(大理石)

𝟔. 毛皮商(Vaiai e Pellicciai)

《聖ヤコポ》ニッコロ・ディ・ピエトロ・ランベル(大理石)

𝟕. 亜麻布・古着商(Linaioli e Rigattieri)

《聖マルコ》ドナテッロ(大理石)

𝟖. 鍛冶屋(Fabbri)

《聖エリジオ》ナンニ・ディ・バンコ(大理石)

𝟗. 毛織物業(Lana)

《聖ステファノ》ロレンツォ・ギベルティ(ブロンズ)

𝟏𝟎. 両替商(Cambio)

《聖マタイ》ロレンツォ・ギベルティ(ブロンズ)

𝟏𝟏. 武器・甲冑(Corazzai e Spadai)

《聖ジョルジョ(ゲオルギウス)》ドナテッロ(大理石)

𝟏𝟐. 石工・木工の親方(Maestri di Pietra e Legname)

《4人の殉教者》ナンニ・ディ・バンコ(大理石)

𝟏𝟑. 製靴業(Calzolai)

《聖フィリポ》ナンニ・ディ・バンコ(大理石)

𝟏𝟒. 肉屋・魚屋・食堂経営(Beccai)

《聖ペテロ》ドナテッロとフィリッポ・ブルネッレスキ(大理石)


壁龕に設置されている彫像はすべてコピーで、オリジナルは美術館に展示されています。












メディチ亡命直後の1494年12月、市民総会が招集され、メディチ体制下で設置されたすべての政府機関(百人評議会、七十人評議会、八人外務委員会、十二人内務委員会)が廃止されました。そして、新たに大評議会と八十人評議会が設置され、フィレンツェは1434年以前の共和国制に戻りました。


とはいっても、フィレンツェの政治の実権を握ったのはジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola, 1452-1498)でした。サヴォナローラは、共和制時代の最初の4年間に、フィレンツェの政治に絶大な影響力をふるい、フィレンツェ市民をかつてない宗教的な興奮に包みました。


サヴォナローラは、フェッラーラ出身の激しい禁欲的苦行を積んだドメニコ会の修道士で、1482年にフィレンツェのサン・マルコ修道院に呼ばれました。一時はフィレンツェを追われましたが、ロレンツォ・イル・マニーフィコの友人であるピコ・デッラ・ミランドラのとりなしにより、ロレンツォの死の2年前、1490年に再びフィレンツェに帰還しました。


サヴォナローラは、堕落した教会とフィレンツェ社会に「神の剣」が下されると預言し、実際にフランス軍の侵略とメディチ体制の崩壊という形で的中させると、民衆の心を完全にとらえたのでした。


清教徒的な厳格主義に基づくサヴォナローラは、メディチ時代の退廃した風俗文化を浄化しなければならないとし、市民に贅沢、華美、賭博、遊興、売春、男色、異教的芸術などのあらゆる悪徳を放棄するように求めました。


そして、1497年の謝肉祭と翌98年の四句節には、「虚栄の焼却(Falò delle vanità)」がシニョリーア広場で行なわれ、豪華な衣裳や装身具、俗悪な書物、官能的な絵画などが山のように積み上げられて焼却されました。これによって、フィレンツェ・ルネサンスの芸術と文化に与えたダメージは計り知れません。


ロレンツォ・イル・マニーフィコ時代の華麗な異教的文化の担い手だった詩人や新プラトン主義者、画家たちも次々にサヴォナローラに帰依し、劇的な回心を経験しました。なかでもサンドロ・ボッティチェッリの回心は痛ましいまでに劇的で、ロレンツォ時代の艶麗優美な様式と異教画題を放棄し、サヴォナローラ的敬虔主義に満ちた宗教画を制作するようになりました。


サヴォナローラはフィレンツェ人の堕落した享楽生活とメディチ家の専制支配を批判しただけではなく、ローマ教皇アレクサンデル6世の堕落した生活ぶりも激しく避難しました。世俗化した教皇の代表的存在であった教皇アレクサンデル6世は憤激し、サヴォナローラのみならずフィレンツェに対して破門状を突きつけました。


シャルル8世のイタリアからの撤退によりサヴォナローラは強力な後ろ盾を失い、そこに教皇庁との対立による経済危機、飢饉やペストの発生などの要因が加わったため、サヴォナローラの人気失墜と孤立化に拍車をかけました。


1498年4月7日、敵対するフランチェスコ修道会からの挑戦を受けた「火の試練」(火の中を歩いて渡り、無事である方が正しいとされる)において、実施方法をめぐる意見の相違から当日になってとりやめるという失態を犯しました。そして、「神を試みてはいけない」と最後まで反対していたサヴォナローラの姿に、人々はにわかに不審の念を抱くようになりました。


カリスマ性を失ったサヴォナローラは、翌4月8日に拘束され、激しい拷問を受けました。そして5月23日、シニョリーア広場で絞首刑の後、さらに火刑に処され、その灰はことごとくアルノ川に流されました。こうして短いサヴォナローラ時代は幕を閉じました。シニョリーア広場のネプチューンの噴水の前には、サヴォナローラが処刑された場所を示す銘板があります。


その後フィレンツェでは党派間の対立が続きましたが、1502年に妥協が成立し、ヴェネツィア共和国の統領(ドージェ doge)に倣った終身国家主席( 「終身の正義の旗手」)を元首とする共和制が誕生しました。長官に就任した名門出身のピエ口・ソデリーニ(Piero Soderini, 1450-1522)は決断力に欠ける人物で、政策の立案と実行には側近のニッコロ・マキアヴェッリ(Niccolò Machiavelli, 1469-1527)が重要な役割を果たしました。シャルル8世軍侵攻やピサ攻略戦の失敗に学んだマキアヴェッリの構想によって、1506年には市民軍が編成され、傭兵に依存した従来の戦争方式の転換がはかられました。1509年には、1494年以来続いたピサ再攻略戦がようやく成功裡に終結しました。








ロレンツォ・イル・マニーフィコが死去すると、20歳の若さで長男のピエロ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ(Piero di Lorenzo de’ Medici, 1472-1503)がメディチ家の権力を継承しました。


父ロレンツォは常日頃、3人の息子のことを「一人は愚かで(ピエロ)、一人は賢く(ジョヴァンニ)、もう一人は心優しい(ジュリアーノ)」と評していたといいますが、その言葉通り、ピエロはメディチ体制を引き継ぐにはまったく不適格な人物でした。


ピエロは、メディチ家の当主としては珍しく美男で、ポリツィアーノを家庭教師として人文主義的な教養を身につけていましたが、性格は尊大で、父のような人間的な魅力はまったく備えていませんでした。


政治は父の秘書であったピエロ・ドヴィツィ・ダ・ビッビエーナ(弟ジョヴァンニの側近で後にビッビエーナ枢機卿となるベルナルド・ドヴィツィの兄)に、銀行業を大叔父のジョヴァンニ・トルナブオーニに任せきりで、自らは私的な享楽に熱中しました。


自分本位で軽率な行動のためにメディチ派の有力者の反感を買い、「弟脈」のロレンツォとジョヴァンニ・ディ・ピエルフランチェスコ兄弟との対立も深刻化していきました。このため、ピエロは「愚昧な(il Fatuo, イル・ファートゥオ)」と通称されます。


1494年、ナポリ王フェランテが没すると、フランス国王シャルル8世はアンジュー家から相続したナポリ王位の継承権を主張して、9月、大軍を率いてアルプスを越え、ナポリを目指して進軍を始めました。


10月には、ルドヴィーコ・イル・モーロの協力を得てミラノ領を通過。フィレンツェ領に近づいたシャルルはピエロに使節を送り、フランス軍の領内通過を許可するように求めましたが、ピエロは同盟国ナポリを支持してフランス軍のフィレンツェ領内通過を拒否し、抗戦の準備にかかりました。


しかし、フランス軍に抵抗すればフィレンツェは滅亡すると考えたピエルフランチェスコ兄弟らは、密かにフランス軍と連絡をとり、ピ工ロの追放を要請しました。


事態に窮したピエロは、一転して、シャルル王の陣営に自ら赴き、巨額の賠償金の支払いやピサとリヴォルノの支配権放棄など、屈辱的な条件でフランス軍の入城を承諾しました。


市民たちはこの独断的行動に憤激しました。11月8日、市政庁に報告するためにピエロはフィレンツェに戻ると一挙に不穏な状況が高まりました。彼の面前で政庁舎のの大扉は閉ざされ、鐘を聞いて広場に集まってきた市民に罵倒され、石を投げつけられました。


身の危険を察したピエロと2人の弟は、その日のうちにフィレンツェを去り、ボローニャに向かいました。市政庁はただちにメディチ家の永久追放令を発し、ピエロとジョヴァンニの首に懸賞金を課しました。ピエルフランチェスコ兄弟は「メディチ」の姓を民衆派を意味する「ポポラーノ」に変えて、邸宅の壁からメディチ家の紋章を取りはずしました。


その10日後の11月17日、シャルル8世の軍隊はフィレンツェに入城し、主のいないメディチ邸に本拠を置きました。メディチ家の財宝や蔵書の一部はピエロによって運び去られ、弟ジョヴァンニによってサン・マルコ修道院に隠されましたが、残された多くの財宝はフランス軍や市民によって略奪されたり、市政庁によって押収されてしまいました。


こうして、1434年からちょうど60年間フィレンツェを事実上支配してきたメディチ家の政権は終りました。この直接の原因は、ロレンツォ・イル・マニーフィコの早すぎた死と息子ピエロの指導者としての能力欠如、そしてシャルル8世の突然の侵攻に帰せられます。


メディチ銀行のネットワークも1494年をもって崩壊しました。ロレンツォ・イル・マニーフィコの晩年にすでにメディチ銀行は破産寸前の状態にあり、支店の半分は閉鎖されていました。


亡命したピエロは、教皇の支援のもとにロマーニャ地方の制覇を進めていたチェーザレ・ボルジア(教皇アレクサンデル6世の私生児)の軍と行動をともにしていましたが、1503年12月、ナポリ近くてフランス軍とスペイン軍が衝突した際にフランス軍に加わって敗れ、逃走中にガリリャーノ川で溺死しました。この不運な死により、ピエロは「不運の(lo Sfortunato, ロ・スフォルトゥナート)」とも呼ばれます。



メディチ家礼拝堂は、位置としてはサン・ロレンツォ聖堂の主祭壇の後ろ側にあたりますが、博物館として独立した入口をもっているため、教会堂内からではなく、いったん外へ出て、チケットを買って入り直す必要があります。


メディチ家の菩提寺であるサン・ロレンツォ聖堂の堂内には、あちこちにメディチ家の墓が設けられていますが、大切な礼拝堂は「新聖具室(Sagrestia Nuova)」と「君主の礼拝堂(Cappella dei Principi)」の2ヵ所です。


「新聖具室」は、礼拝堂にて転用すべくミケランジェロが設計し直した詩的な芸術空間で、教会の右翼廊にあります。もう一つの「君主の礼拝堂」は、メディチ家のトスカーナ大公たちが眠る贅を尽くした大空間で、教会の後陣部分に建設されました。


1520年、ミケランジェロはメディチ家出身のローマ教皇レオ10世の依頼を受けて「新聖具室」を設計し、彫刻と建築を見事に調和させることに成功しました。教皇レオ10世が死去すると計画は一旦中断しますが、教皇クレメンス7世によって再開されます。


ロレンツォ豪華王と、パッツィ家の陰謀で刺殺された弟のジュリアーノは、祭壇と向かい合う南側に設置された『聖母子』像の下に埋葬されています。なお、簡単な墓誌だけで、2人を記念するような肖像彫刻などは実現しませんでした。


東西の壁面に向かい合って設置された2つの墓廟は、東側がヌムール公ジュリアーノ(レオ10世の弟)、西側がウルビーノ公口レンツォ(レオ10世の甥)の墓です。


ただし、ミケランジェロは実際の2人に似せて肖像を彫ろうとはしませんでした。当時の人々がそのことを指摘すると、「十世紀も後になれば、そんなことを誰も問題にしなくなるだろう」と言ったそうです。


ヌムール公ジュリアーノには『行動』、ウルビーノ公ロレンツォには『思索』という対をなす主題が与えられています。そして、それぞれの像の下には、さらに1日を示す4体の擬人像が対をなして配置されています。ジュリアーノの肖像の下には『夜』の女性像と『昼』の男性像、ロレンツォの下には『夕暮』の男性像と『曙 』の女性像です。


この空間では、ミケランジェロの造形原理であるコントラポスト(対位法)が明快に貫かれ、ダイナミックなリズムと緊張が構造的に調和しています。


メディチ家の墓廟は、時代とともに拡大されてゆきました。ブルネッレスキによる5世紀の旧聖具室、ミケランジェロによる16世紀の新聖具室、さらに17世紀には第3代トスカーナ大公となったフェルディナンド1世の時代に「君主の礼拝堂」が着工されました。


コジモ1世の庶子であるドン・ジョヴァンニ・デ・メディチの設計に従って、1604年に建築家ベルナルド・ブオンタレンティが建設を開始しますが、ほぼ現在のような形になるまでには1世紀以上の歳月を要しました。


世界中から集められた色とりどりの美しい大理石や半貴石によって、壁面は重厚かつ華麗に仕上げられています。そして、周囲にはコジモ1世以後のメディチ家出身のトスカーナ大公たちの墓廟が並んでいます。











サン・ロレンツォ教会の正面ファサードに隣接した左側の扉をくぐると、美しい二階建ての連続アーチに囲まれた中庭に出ます。中庭の列柱回廊を左に折れたところから回廊の2階に上ると、貴重かつ豊富な蔵書で知られる、ミケランジェロが設計したメディチ家の図書館、ラウレンツィアーナ図書館があります。


ラウレンツィアーノ(Laurenziano/a)とはイタリア語で「ロレンツォ(Lorenzo)の」という形容詞なので、「豪華王 il Magnifico」と讃えられたメディチ家のロレンツォが建設した図書館のように思う人もいるかもしれませんが、この名はサン・ロレンツォ聖堂の一部として建設されていることに由来します。


メディチ家の「祖国の父」コジモが開始し、孫のロレンツォ「豪華王」によって大きく充実した蔵書コレクションは、しばらくは数奇な運命を辿ることになります。ロレンツォ豪華王の死後まもなく、メディチ家がフィレンツェから追放されると、メディチ家の蔵書はすべて没収されサン・マルコ修道院に持ち去られてしまいます。しかし、ロレンツォ豪華王の次男がローマ教皇レオ10世として即位すると、蔵書は再びメディチ家の手に戻され、その大部分がローマに送られました。


続いてローマ教皇の座についたメディチ家出身のローマ教皇クレメンス7世は、1523年に、今度は蔵書をローマから祖国フィレンツェに送り返し、ミケランジェロに命じて図書館の建設を計画しました。


実際には、神聖ローマ皇帝カール5世が率いる傭兵軍がローマに進駐してきた1527年の「ローマ劫掠(Sacco di Roma)」では、クレメンス7世自身がサンタンジェロ城に閉じ込められてしまったので、図書館の工事も一時中断され、1530年以降に再開されています。


それでも、ミケランジェロ自らがフィレンツェで図書館建設にあたることはありませんでした。ミケランジェロが玄関間の粘土模型を送ったのは、ようやく1559年になってからのことです。ローマに滞在していたミケランジェロの指示を受けながら、メディチ家の宮廷芸術家としてコジモ1世(後のトスカーナ大公)のもとで活躍したジョルジョ・ヴァザーリとバルトロメオ・アンマンナーティが建設を担当しました。そして、最終的な完成はミケランジェロの死後に持ち越されます。


主要部分は玄関間と閲覧室ですが、ここはマニエリスム建築とバロック建築の出発点になったといわれるほど、空間に対する新しい解釈が感じられます。


意外なほど小さな図書館の入口に足を踏み入れると、そこは少なくともフィレンツェでは見たこともない奇妙な空気が充満した玄関間です。それは明快な比例関係に基づいた古典的ルネサンス様式でもなければ、ダイナミックに躍動するバロック空間でもありません。


狭く閉鎖的な玄関間は、形だけの窓やなにも支持しない持送り,壁面をえぐって埋め込まれた双円柱など、伝統的な様式からは大きく隔たっています。


ゆるやかに流れ落ちる滝の水からインスピレーションを受けたという階段はあたかも彫刻作品のようです。三部に分かれている階段は、上部ではひとつに集まるため機能的な意味はありません。劇場の舞台を思わせるような構成と、楕円を利用したデザインは、直線と正円とを基本的な構成要素とするルネサンス建築から逸脱しています。


15段の階段を上り詰めると、奥に深く伸びた閲覧室があります。玄関間の垂直性と閲覧室の水平性は、水の流れを遡行し、滝のカーテンの裏側に回り込んだような錯覚を与えます。


閲覧室では、床面や天井の装飾をはじめ、書見机のデザインまで、すべてがミケランジェロの指示に忠実にしたがって制作されています。書見台には蔵書の一部である貴重な古写本がずらりと展示されています。