1512年9月1日、スペイン軍の脅威の前にソデリーニが亡命すると、同じ日に、スペイン軍に同行してきたロレンツォ・イル・マニーフィコの三男ジュリアーノ(Giuliano di Lorenzo de' Medici, 1479-1516)は私人としてフィレンツェに入りました。
ラルガ通りのメディチ邸では大急ぎでメディチ家の紋章の修復が行われましたが、ジュリアーノは、貴族的権威のシンボルである顎ひげを剃り落し、目立たない格好で、自邸ではなく友人のアルビッツィ家の屋敷にひそかに入りました。
その2週間後の9月14日には、ジュリアーノとは対照的に、兄の枢機卿ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は1500人のスペイン兵を率いて入城し、支配者にふさわしい正装でメディチ邸に入りました。
ジョヴァンニはただちに共和制の機構を1494年以前の状態に戻し、18年ぶりにメディチ家のフィレンツェ支配が復活しました。表向きは共和制を保ちながら、重要な役職をメディチ派で独占しました。当主はジュリアーノでしたが、実権は補佐役を務めるジョヴァンニ自身が握っていました。
1512年の時点で、メディチ本家には4人の若いメンバーが存在しました。ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男の枢機卿ジョヴァンニ(37歳)、その弟の三男ジュリアーノ(34歳)、彼らの従弟ジューリオ(34歳、イル・マニーフィコの弟でパッツィ家の陰謀事件で殺されたジュリアーノの庶子)、そして死んだ長男ピエロの息子口レンツォ(20歳)です。
初めの半年間はジョヴァンニとジュリアーノが共同で統治していましたが、翌1513年、教皇ユリウス2世が亡くなると、ジョヴァンニは後継者に選ばれ、レオ10世として教皇位に就きました。
教皇レオ10世は、柔和な性格の弟ジュリアーノは支配者には向かないと判断して、甥のロレンツォにフィレンツェの統治を委ねました。そして従弟のジューリオをフィレンツェ大司教・枢機卿に任じて、その補佐役としました。
そしてロレンツォが1519年に早世すると、フィレンツェの統治はジューリオ枢機卿が行いましたが、教皇レオ10世の没後ジューリオが教皇に選ばれてクレメンス7世となってからは、ジュリアーノの庶子イッポーリトとロレンツォの庶子(実際には教皇クレメンス7世の庶子)アレッサンドロを後継者とし、ローマから間接的に統治しました。
父マニーフィコから「心優しい」子として特別に可愛がられ、ポリツィアーノを家庭教師として育ったジュリアーノは、穏健で繊細な、教養と文才に富んだ魅力的な貴公子として知られ、戦争や権謀術数よりも私的な快楽と賛沢な社交生活を好む人物でした。
当主の地位を退いてローマに移ったジュリアーノは、兄レオ10世より教皇軍総司令官に任命されましたが、もともと軍人という柄ではなく、公務に励むよりも、イタリア各地から集まった芸術家や文化人でにぎわう教皇の宮廷で、華やかな文化生活を楽しみました。
1515年、フランス国王ルイ12世が死去して若いフランソワ1世が即位すると、ジュリアーノは、兄の意向でフランス国王フランソワ1世の叔母フィリベルタ・ド・サヴォアと婚約し、2月にはトリノで結婚式を挙げました。そして同年、「ヌムール公」の称号を授けられました。
この結婚は明らかに政略結婚で、メディチ家とフランス王族との将来にわたる国際的血族関係を形成する第一歩として重要な意味をもっていましたが、結婚からわずか1年後の1516年、ジュリアーノは37歳の若さでフィレンツェで夭折しました。あとにはウルビーノ時代にもうけた庶子イッポーリトが残されました。
作品情報:
Ritratto di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Raffaello Sanzio, 1515 circa, Tempera e olio su tela, 83,2x66 cm, Metropolitan Museum of Art, New York, Stati Uniti
Tomba di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm, Sagrestia Nuova, Basilica di San Lorenzo, Firenze