ロレンツォ・デ・メディチ(Lorenzo de' Medici, 1449〜1492年)は、「痛風病みの」ピエロの長男で、フィレンツェのルネサンス期におけるメディチ家最盛時の当主です。
コジモが期待した孫のロレンツォが当主になったのは1469年。その時まだ20歳になったばかりでしたが、賢母ルクレツィア・トルナブオーニに将来の帝王に育てられた若き君主は、とにもかくにもフィレンツェ黄金時代を象徴する存在となりました。
子どもの頃から古典の教養を身につけただけでなく、一国の君主にふさわしい宮廷教育を授けられた彼は、病弱な父の名代として各地に派遣されるなど、政治的な経験も早くから積んでいました。一方、美貌ではありませんでしたが、弁舌巧みな伊達男としても知られ、乗馬や恋愛に青春を謳歌する若者でした。
フィレンツェの実質的な君主となったロレンツォは、政治家として祖父のコジモに劣らない器量の持ち主であることをすぐに示しました。1470年、反メディチ派が隣町のプラートで起こした反乱を鎮圧したのを機に、政府と議会を意のままに動かす体制を築いてしまいました。
ロレンツォがフィレンツェで権力基盤を着々と固めつつあった1471年、教皇シクストゥス4世が即位しました。きわめて野心的なシクストゥス4世は、イーモラを買収して甥(実子ともいわれる)のジローラモ・リアーリオに領地として与え、ミラノ公庶出の娘カテリーナ・スフォルツァと結婚させました。つながりの深いメディチ銀行が資金融資を求められましたが、イーモラは戦略上の要地であり、フィレンツェの安全にとって脅威となるため、ロレンツォがそれを拒否したため、教皇はメディチ銀行のライバルであるフィレンツェのパッツィ銀行に改めて融資を依頼しました。
3年後、教皇のもう一人の甥がフィレンツェ領の隣町に反乱鎮圧の名目で侵攻し、フィレンツェも軍を派遣したため、両者の緊張は一気に高まりました。ロレンツォが教皇国家の勢力拡大に対抗してヴェネツィア、ミラノと同盟を結ぶと、教皇もナポリ王国と同盟しました。また報復として、メディチ銀行がもっていた教皇庁での特権を取り上げ、パッツィ銀行に与え、パッツィ家に関係の深い人物をフィレンツェ支配下のピサ大司教に任命しました。
パッツィ家は先祖が第一次十字軍に参加した由緒ある貴族の家柄でしたが、当時は新参者のメディチ家に権力においても銀行家としても後れをとっていました。したがってこれはパッツィ家にとって積年の恨みを晴らす絶好の機会でした。しかしロレンツォはピサ大司教の入国を何年も拒みつづけたばかりか、パッツィ家の遺産相続にも介入しました。
これに怒りを募らせたフランチェスコ・デ・パッツィはジローラモ・リアーリオと共謀し、ロレンツォとジュリアーノのメディチ兄弟の暗殺を決意しました。計画にはピサ大司教と教皇軍の傭兵隊長も参加し、ロレンツォを憎んでいた教皇も暗黙の了解を与えました。
作品情報:
Ritratto di Lorenzo il Magnifico, Giorgio Vasari, 1534 circa, Olio su tavola, 90 x 72 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 83), Firenze