Let's go to Italy!


父ロレンツォ・イル・マニーフィコの才能を継いて子供の頃から英才ぶりを注目された次男ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は、ポリツィアーノやベルナルド・ドヴィツィ(のちのビッビエーナ枢機卿)を家庭教師として恵まれた人文主義教育を受け、7歳で聖職に入りました。


マニーフィコは、早くからジョヴァンニのために各地の修道院長の聖職禄や参事会職を獲得することに異常なほど熱を入れました。教皇インノケンティウス8世と縁戚関係を結ぶことに成功すると(1487年、マニーフィコの娘マッダレーナがインノケンティウス8世の庶子フランチェスケット・チーボと結婚)、直ちにインノケンティウス8世にたいして当時13歳のジョヴァンニの枢機卿昇任を働きかけました。


そして、2人の後押しにより、父の死の1ヵ月前の1492年3月、フィエーゾレのバディアで史上最年少(16歳)の枢機卿として叙任されました。


父の死後、ジョヴァンニはフィレンツェに戻り、しばらく兄ピエロや弟ジュリアーノとメディチ邸で過ごしましたが、1494年11月にメディチ家が追放になると、ペルージャ、ウルビーノ、ミラノを転々とし、さらに1499年には、身の安全をはかるため、従弟ジューリオとともにドイツ、フランドル、フランスの諸都市を旅行しました。


1500年、アレクサンデル6世治下のローマに戻り、現在のマダーマ宮殿に居を構えると、従弟のジューリオ、秘書ベルナルド・ドヴィツィらとともに文人・芸術家や社交仲間に囲まれて、賛沢三昧な生活をおくりました。


1503年、アレクサンデル6世没後(正確にはわずか26日間在位したピウス3世の没後)のコンクラーヴェ(conclave, 教皇選挙会議)では、ユリウス2世擁立のために積極的に動き、兄ピエロの戦死後は、メディチ家の当主として、ユリウス2世の支持を受けてメディチ家復帰運動の中心的存在となりました。


1512年9月、18年ぶりにフィレンツェに戻ったジョヴァンニは、マニーフィコの時代以上に強力なメディチ体制を復活させ、弟ジュリアーノを表に立てながら実質的な統治者として君臨しました。


そして半年後の1513年3月、教皇ユリウス2世が死去すると、コンクラーヴェに参加するためにローマに向かいました。


このコンクラーヴェでは、当初、ジョヴァンニは教皇候補者としてさほど注目されていませんでした。しかし、枢機卿として20年以上の経験を積んでいたし、性格は快活で才知に富み社交的、そしてまだ30代にもかかわらず健康状態が優れない(在位期間が長期に及ばない可能性が高い)ことが幸いして、候補者として急速に浮上しました。


そして1週間の密室でのコンクラーヴェの後、ほとんど買収行為もないまま、レオ10世(在位1513〜21年)として史上最年少(37歳)で217代目の教皇に選出されました。


フィレンツェ市民も、この都市で初めての教皇の誕生に歓喜し、何日間も熱狂的な祝典が続きました。


レオ10世の即位は、いうまでもなくメディチ家の歴史において画期的な意義をもつ出来事でした。この教皇登位によって、メディチ家はイタリアとヨーロッパの王侯貴族と肩を並べる一族となり、またフィレンツェと教皇領の両方を支配するイタリア最大の門閥となりました。

 






ジュリアーノの跡を継いでフィレンツェの統治者となったロレンツォ・イル・マニーフィコの孫ロレンツォ(Lorenzo di Piero de' Medici, 1492-1519)は、ジュリアーノとはあらゆる面で正反対の性格で権力欲が強く、父のピエロから尊大さと粗暴さを受け継いでいました。


2歳のときにフィレンツェを離れてローマで育ったロレンツォは、ローマでの享楽的生活に愛着をもっていましたが、叔父の教皇レオ10世の強い意思により、気が進まないまま21歳でフィレンツェの統治者となりました。


ロレンツォの行動は、もう一人の叔父の枢機卿ジューリオによって監督され、逐一ローマに報告されていましたが、ロレンツォはしだいに独裁的な傾向を強めました。野心家のロレンツォはウルビーノ公国獲得をめざしましたが、それはレオ10世のもくろみと一致しました。


領土的野心にたいして、かつてウルビーノ宮廷で公爵一族の厚遇を受けたジュリアーノは反対し、協力を拒否しましたが、ジュリアーノが死ぬと、フィレンツェ軍と教皇軍の総司令官を兼務していたロレンツォは、直ちに行動を起こしました。


ロレンツォは、1516年にウルビーノを攻め、ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレを追放して、強引に「ウルビーノ公」の称号を獲得しました。


1518年には、フランス王族との姻戚関係をさらに強固にすることを望んだレオ10世の政略で、ロレンツォはフランソワ1世の従妹マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドゥーヴェルニュと結婚しました。翌年には娘が産まれましたが、出産直後に妻は死亡、ロレンツォ自身もその1週間後に27歳の若さで亡くなりました(死因は梅毒といわれています)。


ロレンツォのあとには、女児カテリーナ(のちのフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシス)が残されましたが、ロレンツォの早世によって、メディチ家兄脈の嫡子の血統は途絶えることになりました。


ロレンツォは、父ピエロ同様、芸術や文化のパトロネージには関心を示しませんでした。また、マキャヴェッリの著名な 『君主論』は、初めはジュリアーノに捧げられる予定でしたが、ロレンツォに献上されました。マキャヴェッリはロレンツォに新しい権力者像を期待しましたが、文化的なものに対して無関心だったロレンツォは、この革命的な書物にまったく理解も関心も示しませんでした。


レオ10世は、夭折した「ヌムール公」ジュリアーノと「ウルビーノ公」ロレンツォの墓碑の制作をミケランジェロに依頼しました。2人の墓碑は、サン・ロレンツォ聖堂新聖具室(メディチ家礼拝堂)にあります。最初の計画では、2人と同名の、ロレンツォ・イル・マニーフィコと暗殺された弟のジュリアーノの墓碑も作られるはずでしたが、実現せずに終わりました。


「ウルビーノ公」ロレンツォの死後、フィレンツェの統治はフィレンツェ大司教だったジューリオ枢機卿(Giulio di Giuliano de' Medici, 1478-1534)が行っていましたが、1523年にジューリオはクレメンス7世としてメディチ家2人目の教皇となりました。


フィレンツェの統治は「ヌムール公」ジュリアーノの庶子イッポーリトと「ウルビーノ公」ロレンツォの庶子(実際には教皇クレメンス7世の庶子)アレッサンドロに託され、幼少の2人の後見人として腹心の枢機卿がフィレンツェに派遣されました。


作品情報:

Ritratto di Lorenzo de' Medici duca di Urbino, Raffaello Sanzio, 1516-1519, Olio su tela, 97×79 cm, Sconosciuta

Tomba di Lorenzo de' Medici duca di Urbino, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm, Sagrestia Nuova, Basilica di San Lorenzo, Firenze







1512年9月1日、スペイン軍の脅威の前にソデリーニが亡命すると、同じ日に、スペイン軍に同行してきたロレンツォ・イル・マニーフィコの三男ジュリアーノ(Giuliano di Lorenzo de' Medici, 1479-1516)は私人としてフィレンツェに入りました。


ラルガ通りのメディチ邸では大急ぎでメディチ家の紋章の修復が行われましたが、ジュリアーノは、貴族的権威のシンボルである顎ひげを剃り落し、目立たない格好で、自邸ではなく友人のアルビッツィ家の屋敷にひそかに入りました。


その2週間後の9月14日には、ジュリアーノとは対照的に、兄の枢機卿ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は1500人のスペイン兵を率いて入城し、支配者にふさわしい正装でメディチ邸に入りました。


ジョヴァンニはただちに共和制の機構を1494年以前の状態に戻し、18年ぶりにメディチ家のフィレンツェ支配が復活しました。表向きは共和制を保ちながら、重要な役職をメディチ派で独占しました。当主はジュリアーノでしたが、実権は補佐役を務めるジョヴァンニ自身が握っていました。


1512年の時点で、メディチ本家には4人の若いメンバーが存在しました。ロレンツォ・イル・マニーフィコの次男の枢機卿ジョヴァンニ(37歳)、その弟の三男ジュリアーノ(34歳)、彼らの従弟ジューリオ(34歳、イル・マニーフィコの弟でパッツィ家の陰謀事件で殺されたジュリアーノの庶子)、そして死んだ長男ピエロの息子口レンツォ(20歳)です。


初めの半年間はジョヴァンニとジュリアーノが共同で統治していましたが、翌1513年、教皇ユリウス2世が亡くなると、ジョヴァンニは後継者に選ばれ、レオ10世として教皇位に就きました。


教皇レオ10世は、柔和な性格の弟ジュリアーノは支配者には向かないと判断して、甥のロレンツォにフィレンツェの統治を委ねました。そして従弟のジューリオをフィレンツェ大司教・枢機卿に任じて、その補佐役としました。


そしてロレンツォが1519年に早世すると、フィレンツェの統治はジューリオ枢機卿が行いましたが、教皇レオ10世の没後ジューリオが教皇に選ばれてクレメンス7世となってからは、ジュリアーノの庶子イッポーリトとロレンツォの庶子(実際には教皇クレメンス7世の庶子)アレッサンドロを後継者とし、ローマから間接的に統治しました。


父マニーフィコから「心優しい」子として特別に可愛がられ、ポリツィアーノを家庭教師として育ったジュリアーノは、穏健で繊細な、教養と文才に富んだ魅力的な貴公子として知られ、戦争や権謀術数よりも私的な快楽と賛沢な社交生活を好む人物でした。


当主の地位を退いてローマに移ったジュリアーノは、兄レオ10世より教皇軍総司令官に任命されましたが、もともと軍人という柄ではなく、公務に励むよりも、イタリア各地から集まった芸術家や文化人でにぎわう教皇の宮廷で、華やかな文化生活を楽しみました。


1515年、フランス国王ルイ12世が死去して若いフランソワ1世が即位すると、ジュリアーノは、兄の意向でフランス国王フランソワ1世の叔母フィリベルタ・ド・サヴォアと婚約し、2月にはトリノで結婚式を挙げました。そして同年、「ヌムール公」の称号を授けられました。


この結婚は明らかに政略結婚で、メディチ家とフランス王族との将来にわたる国際的血族関係を形成する第一歩として重要な意味をもっていましたが、結婚からわずか1年後の1516年、ジュリアーノは37歳の若さでフィレンツェで夭折しました。あとにはウルビーノ時代にもうけた庶子イッポーリトが残されました。


作品情報:

Ritratto di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Raffaello Sanzio, 1515 circa, Tempera e olio su tela, 83,2x66 cm, Metropolitan Museum of Art, New York, Stati Uniti

Tomba di Giuliano de' Medici duca di Nemours, Michelangelo Buonarroti, 1524-1534, Marmo, 650×470 cm, Sagrestia Nuova, Basilica di San Lorenzo, Firenze







アンドレア・デル・サルトの代表作であるこの油彩の祭壇画は、1515年5月にフィレンツェのサン・フランチェスコ・デ・マッチ女子修道院が注文し、1517年に完成しました。


1515年5月14日の注文の契約によれば、板絵は2人の天使によって戴冠される聖母と幼子イエス、両側に福音書記者聖ヨハネと聖ボナヴェントゥーラを描き、1年以内に引き渡されるはずでした。


しかしながら、作品には1517年の年記があり、福音書記者聖ヨハネと聖フランチェスコのあいだに聖母子を描くものとなりました。


聖母子の立つ多角形の台座の隅には、画題にもなっているハルピュイアの彫刻が施されています。ハルピュイアとは、ギリシア神話に登場する、女の顔と鳥の体をもつ怪物です。


中央にある画家の署名の下には、聖母被昇天の賛歌の最初の言葉が記されています。したがって作品は聖母載冠ではなく聖母被昇天となっています。

""AND.[rea del] SAR.[to] FLOR.[entinus] FAC.[iebat] / AD SUMMUM REGINA TRONUM DEFERTUR IN ALTUM M.D.XVII.""


少なくともジョルジョ・ヴァザーリやフィレンツェの同時代人は、この怪物をハルピュイアだとみなしていましたが、現代では『ヨハネの黙示録』の9章に登場する「いなご」を表現しているのではないかと考える美術家もいます。


図像全体は『ヨハネの黙示録』の第9章に通じるものと思われ、この絵の中で聖ヨハネは「第五の天使がラッパを吹いた。[中略] 底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り」という予言的な一節を読んでいるところと推測できます。


したがって、台座の怪物は、この煙から地上に出てきて「額に神の印」が押されていない人間たちを苦しめたという「いなご」と考えられます。


「いなごの姿は、出陣の用意を整えた馬に似て、頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようであった。また、髪は女の髪のようで、歯は獅子の歯のようであった。また、胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その羽の音は、多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった。」と『黙示録』に記述されています。


台座はおそらく底なしの淵の穴の蓋で、ここで聖母は邪悪な力を踏みつけ、2人の天使は蓋を閉じる聖母に手を貸しています。


この作品はまさしくアンドレアの歩みの到達点であり、チンクエチェント(16世紀)初頭の芸術制作上のもっとも意味深い体験を高いレベルで円熟させたことを明示しています。


卓越した色彩の豊かさは、ヴァザーリがかつて、「独得で、まことに類まれな美しさがある」と称賛しました。


聖母の像は、幼子イエスの重さとバランスをとった十字構成のなかに収まり、衣服の強烈な赤が画面中央を照らし、その赤色はまた、マントの褪せた青や、肩にかかる襞をよせた薄布の鮮明な黄色と調和して和らげられています。黄色の布の上には、頭部を覆う白いヴェールの簡素ながら非常に美しい衣文が見られます。幼子イエスはよく描かれるような赤子姿ではなく、やや成長した姿で描かれています。


聖母の左手には、聖ヨハネが朱色がかった赤のマントをまとい、その赤はきわめて洗練された玉虫色の襞によって、衣服の薄紫色と溶け合っています。


反対側では聖フランチェスコが、多様に変化する精巧な色調によって、背景の建築物の上に際立った明確な旋律を形づくっています。


この絵の制作に当たって主題を練り上げたのはおそらく神学者アントニオ・ディ・ロドヴィーコ・サッソリーニでしょう。彼は1515年から1519年にかけてトスカーナ地方のフランチェスコ修道会の総会長であり、サヴォナローラの説教に感銘を受けた人物でした。


作品情報:

Madonna delle Arpie, Andrea del Sarto, 1517, Olio su tavola, 207×178 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 58), Firenze








この祭壇画はピエロッツォ・テダルディがフィレンツェのサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会内の同家の礼拝堂用に依頼したものです。その後、1670年に枢機卿レオポルド・デ・メディチによって購入され、1804年には、現在のウッフィーツィ美術館に移動されました。


キリストの受肉を表したきわめて稀な主題で、この絵画以前には存在していませんでした。一風変わったことで有名なピエロにとって、この主題を描くという挑戦は、愛おしいものでした。


天から鳩の姿をした聖霊が降りてきて、神秘の光がこの場を照らし出します。この瞬間、マリアはヨセフとの交わりのないまま、聖霊によってイエスを身ごもりました(処女懐胎)。


台座にはまさにこの受胎告知の瞬間が浮き彫りで表され、その上に立つ聖母は恍惚としたまなざしで天を仰ぎ、身ごもった腹部に手を置いています。


画面は巧みに構成されており、谷間によって分かたれた2つの岩山に「キリストの降誕」と「エジプトへの逃避」の光景が描かれ、これからイエスとともに歩む苦難の道のりが暗示されています。


手前には貞潔を守った2人の聖女がひざまずき、聖母の純潔を暗示します。


聖カタリナは棕櫚の小枝と聖書を持ち、足元には彼女のシンボルである歯のついた車輪の断片が見えます。


聖マルガリタは真珠の数珠と、彼女を呑み込んだ竜を退治した十字架を持っています。


画面の左には福音書記者聖ヨハネが立ち、その背後に彼の象徴であるワシがいます。彼はマリアの子宮を指差し、救世主の到来を暗示しています。また一説によれば、このしぐさは、『ヨハネの黙示録』第12章に記してある「太陽をまとった女」が神の母を象徴する聖母の姿であることを示しています。


ヨハネの後ろの人物は聖フィリッポ・ベニッツィで、剃髪、修道服、そして純潔を象徴するユリの花が持物(アトリビュート)です。彼はマリアの下僕修道会の指導者で、1285年に死去し、17世紀になって列聖されますが、ルネサンス期のフィレンツェではつねに崇敬された聖人でした。


マリアの永遠の処女性は、1243年にモンテ・セナリオ修道院で隠遁生活を始めたこのマリアの下僕修道会士らにとりわけ強く主張され、背景右手に表された建物をこの修道院と見なす説もあります。


画面右側に天国の鍵を持つ聖ペテロが立っていますが、彼はサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会の権威や正統性を示すのに不可欠です。というのも、慎ましい漁師の容貌は、おそらく注文主のピエロッツォ・テダルディの肖像と推測されるからです。


その後ろにいる人物は、フィレンツェの大司教でサン・マルコ修道院長でもあった聖アントニウスです。


作品情報:

Incarnazione di Cristo e santi, Piero di Cosimo, 1500-1505, Olio su tavola, 206x172 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 28), Firenze










これは、ベルナルド・デル・ビアンコにより、フィレンツェのバディア・フィオレンティーナ教会内の彼の礼拝堂用のために依頼された作品で、心酔していた修道士サヴォナローラの死後、フラ・バルトロメオが初めて描いた作品です。


契約は、フラ・バルトロメオが下絵として用意した素描を見て注文主が合意したのち、1504年11月18日に交わされました。その下絵は、画面中央に聖母子、その左側に聖ベルナルドゥスと聖フランチェスコ、右側に聖バルナバと聖べネディクトゥスがいるというものでした。


しかしこの板絵は、報酬に関して、契約書の記載内容とは一致せず、長いあいだ折り合いがつかなくて、1507年になってやっと礼拝堂に収められました。


この主題は、トスカーナ地方ではフィリッポ・リッピ、フィリッピーノ・リッピ、およびペルジーノらが描いており、よく知られていました。


フラ・バルトロメオの作品では、聖ベルナルドゥスがシトー派修道会の白い衣をまとい、恍惚としてひざまづき、両手を広げています。


彼の前には現れた幼児キリストを腕に抱いた聖母は、大勢の天使に支えられて宙に浮かんでいます。


ベルナルドゥスは讃美『女王万歳』を聞き、その歌詞を書き写しますが、この出来事は、天使の1人が開いて読んでいる書物によって暗示されているようです。


別の書物が聖べルナルドゥスの近くにありますが、これは、この聖人の知恵と世に知られた彼の雄弁さを示唆しています。


さらに別の1冊が、閉じられた状態で携帯用の小祭壇画にもたせかけてあり、小祭壇画は、まるで細密画のように、キリストの傑刑が緻密に描かれています。


聖ベルナルドゥスの背後に2人の聖人がおり、この幻視の場に立ち会っています。ひとりは初期キリスト教時代の伝道者である聖バルナバで、書物を手にしています。もうひとりは西欧における修道院制度の創始者である聖べネディクトゥスで、伝統的な黒い法衣をまとっています。


2人の聖人の後ろの岩山には、聖痕を受ける聖フランチェスコが見えます。ドメニコ会の修道士であったバルトロメオは、聖ベルナルドゥスと聖フランチェスコを共に描くことによって、当時抗争が絶えなかった三修道会の平和を祈った、と考える学者もいます。


3段からなる大理石の床が、両面中央に広がる風景と聖なる空間とを分けています。遠くに村があり、その向こうには青みがかった山々が見えます。


この絵の構図は画面左端にあるルネサンス様式の建築物と、画面右端にある樹木の生えた岩山によって締めくくられます。聖ベルナルドゥスが世俗世界から離れて精進した様子を表すために、この空間を最大限に活用しました。


作品情報:

La visione di San Bernardo, Fra Bartolomeo, 1504-1507 circa, Olio su tavola, 215×231 cm, Galleria degli Uffizi (Sala 41), Firenze

 










ソデリーニ政権下のフィレンツェは、シャルル8世のあとフランス国王となったルイ12世が再びミラノとナポリに対する支配権を主張してイタリアに介入してくると、フランス側につきながら辛うじて中立を保持していました。


ローマでは、教皇アレクサンデル6世の後継者ピウス3世が在位期間わずか26日で亡くなったあと、1503年、ユリウス2世が教皇位に就きました。


ユリウス2世は芸術を愛好し、多くの芸術家を支援したことでローマにルネサンス芸術の最盛期をもたらしましたが、伯父のシクストゥス4世以上に好戦的な教皇で、ペルージャとボローニャを武力で征服し、さらには、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国と同盟を結んでヴェネツィアを破りました。


1511年、ユリウス2世がヴェネツィア、スペイン統治下のナポリ、スイスと反フランス神聖同盟を結ぶと、フィレンツェは危機に立たされました。


フランスはユリウス2世を廃位に追い込むためにピサで公会議を開きましが、これに協力したソデリーニ政府は教皇領との対立を激化させました。ユリウス2世は、フィレンツェに聖務停止令を発する一方、親密な関係にあった枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチを支援して、メディチ家のフィレンツェ帰還を画策しました。


1512年4月、神聖同盟軍とフランス軍はラヴェンナ近郊で衝突しました。ヨーロッパ史上に残る激戦の末フランスが勝利を収め、同盟軍に同行していたジョヴァンニ・デ・メディチはフランスの捕虜となり、ミラノに護送されました。


この戦いで、フランス側も有能な総司令官ガストン・ド・フォアが戦死し、混乱に乗じて同盟側のスイスが大軍を進めたため、フランス軍はミラノを放棄して総退却してしまいました。ジョヴァンニは人質としてフランスへ連行される途中で脱走し、フィレンツェに向かうスペイン軍に弟ジュリアーノ(のちのヌムール公)とともに合流しました。


8月末、スペイン軍はフィレンツェ領下のプラートを攻略し、市内は2日にわたって略奪され、約2000人が殺害されました。その結果、ソデリーニは亡命を余儀なくされ、市政府はメディチ家の復帰と神聖同盟への参加を受け入れました。


1513年2月、ユリウス2世が死去すると、枢機卿ジョヴァンニ・デ・メディチがレオ10世として教皇の位に就きました。


この時代、フィレンツェはかつてのような政治的な重要性は失っていました。しかし、文化的にはサヴォナローラ時代の厳しい禁欲主義から解放されて、いわゆる盛期ルネサンス芸術が花開きました。


反メディチの共和体制のシンボルとして創設された大評議会の議場(五百人広間)の建設は、14世紀以来の政庁舎の最大の増築事業としてすでにサヴォナローラ時代の1495年7月に着工され、急ピッチの工事の末、翌年4月には完成しました。


ソデリーニが終身国家主席に就任すると、政庁は大広間の側壁にフィレンツェ共和国の過去の軍事的勝利を称揚する大壁画を二大巨匠のレオナルド・ダ・ヴィンチ(1440年の対ミラノ戦《アンギアーリの戦い》)とミケランジェロ(1364年の対ピサ戦《カッシーナの戦い》)に注文しました。2人は壮大な構想のもとに制作にとりかかりましたが、それぞれミラノとローマに招聘されたために未完に終わりました。


ミケランジェロが共和国の守護神としての《ダヴィデ》像を制作したのもこの時期でした。ミケランジェロは高さ4メートルの巨像'il Gigante'を1504年初めに完成し、ボッティチェッリやレオナルドも加わった設置場所検討委員会の審議をへて、5月に政庁前広場に面する政庁舎正面入口の前に設置されました。


また、レオナルド・ダ・ヴィンチが織物商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの夫人をモデルにしたといわれる不滅の名作《ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)》を描いたのもこの頃でした。


この2人と並んでルネサンス美術の三大巨匠といわれるラッファエッロも、1504年から数年間フィレンツェに滞在し、レオナルドやミケランジェロの影響を受けて才能を大きく開花させ、有力市民たちのために多くの聖母子画や肖像画を制作しました。


他にも、ピエロ・ディ・コジモやフラ・バルトロメオ、若きアンドレア・デル・サルトなどが活躍しました。


このように、ソデリーニ時代のフィレンツェは、サヴォナローラ時代の文化的不毛と抑圧の時代から一転して、新世紀の幕開けの数年間、再びイタリア芸術の最前線の舞台となりました。