父ロレンツォ・イル・マニーフィコの才能を継いて子供の頃から英才ぶりを注目された次男ジョヴァンニ(Giovanni di Lorenzo de' Medici, 1475−1521)は、ポリツィアーノやベルナルド・ドヴィツィ(のちのビッビエーナ枢機卿)を家庭教師として恵まれた人文主義教育を受け、7歳で聖職に入りました。
マニーフィコは、早くからジョヴァンニのために各地の修道院長の聖職禄や参事会職を獲得することに異常なほど熱を入れました。教皇インノケンティウス8世と縁戚関係を結ぶことに成功すると(1487年、マニーフィコの娘マッダレーナがインノケンティウス8世の庶子フランチェスケット・チーボと結婚)、直ちにインノケンティウス8世にたいして当時13歳のジョヴァンニの枢機卿昇任を働きかけました。
そして、2人の後押しにより、父の死の1ヵ月前の1492年3月、フィエーゾレのバディアで史上最年少(16歳)の枢機卿として叙任されました。
父の死後、ジョヴァンニはフィレンツェに戻り、しばらく兄ピエロや弟ジュリアーノとメディチ邸で過ごしましたが、1494年11月にメディチ家が追放になると、ペルージャ、ウルビーノ、ミラノを転々とし、さらに1499年には、身の安全をはかるため、従弟ジューリオとともにドイツ、フランドル、フランスの諸都市を旅行しました。
1500年、アレクサンデル6世治下のローマに戻り、現在のマダーマ宮殿に居を構えると、従弟のジューリオ、秘書ベルナルド・ドヴィツィらとともに文人・芸術家や社交仲間に囲まれて、賛沢三昧な生活をおくりました。
1503年、アレクサンデル6世没後(正確にはわずか26日間在位したピウス3世の没後)のコンクラーヴェ(conclave, 教皇選挙会議)では、ユリウス2世擁立のために積極的に動き、兄ピエロの戦死後は、メディチ家の当主として、ユリウス2世の支持を受けてメディチ家復帰運動の中心的存在となりました。
1512年9月、18年ぶりにフィレンツェに戻ったジョヴァンニは、マニーフィコの時代以上に強力なメディチ体制を復活させ、弟ジュリアーノを表に立てながら実質的な統治者として君臨しました。
そして半年後の1513年3月、教皇ユリウス2世が死去すると、コンクラーヴェに参加するためにローマに向かいました。
このコンクラーヴェでは、当初、ジョヴァンニは教皇候補者としてさほど注目されていませんでした。しかし、枢機卿として20年以上の経験を積んでいたし、性格は快活で才知に富み社交的、そしてまだ30代にもかかわらず健康状態が優れない(在位期間が長期に及ばない可能性が高い)ことが幸いして、候補者として急速に浮上しました。
そして1週間の密室でのコンクラーヴェの後、ほとんど買収行為もないまま、レオ10世(在位1513〜21年)として史上最年少(37歳)で217代目の教皇に選出されました。
フィレンツェ市民も、この都市で初めての教皇の誕生に歓喜し、何日間も熱狂的な祝典が続きました。
レオ10世の即位は、いうまでもなくメディチ家の歴史において画期的な意義をもつ出来事でした。この教皇登位によって、メディチ家はイタリアとヨーロッパの王侯貴族と肩を並べる一族となり、またフィレンツェと教皇領の両方を支配するイタリア最大の門閥となりました。